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うなぎの穴(6)

2013/05/30 Thu 17:39

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 薄暗い裸電球がぶら下がる廃屋の隅で、乞食女の股に挟まれた僕は凄まじい快感に包まれながら必死でペニスをシゴいていた。ペニスには乞食女の汁がたっぷりと塗り込まれ、シゴく度にクチュクチュと音を立ててはイカ臭をプンプンと撒き散らしていた。
 精液がぶっかけられた乞食女の陰部には、アングラな卑猥感が貪よりと漂い、今までに見たどんな芸術作品よりも、ずっと美しいと思った。
 そんな余韻を感じていると、未だクリトリスを弄っていた乞食女が「もっと入れて」と低い声で唸った。見ると乞食女はカミソリのような鋭い目つきで僕を睨んでいた。
 そこで初めて、この女に対する恐怖を感じた。射精後のいつもの嫌悪感に、乞食女のあらゆる部分から発せられる凄まじい臭気が混じり、この現実に身の毛がよだった。

(そうだ……この女は破滅型の女なんだ。いわゆる気が狂っているんだ。そんな女とセックスしてしまった今の僕の立場は非常に危険であり、早く逃げないと……)

 ブルっと背筋が震えた。するとその瞬間、いきなり乞食女がもの凄い勢いでガバっと起き上がり、何故か突然四つん這いになった。
 四つん這いになった乞食女は、真正面から僕を睨み、獰猛な目をギロッと光らせた。それはまるで猟友会に追い込まれた猪のように鋭く、今にも牙を剥き出して襲い掛かってきそうな、そんな気配だった。

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 殺される……。咄嗟にそう思った僕は、既に萎えてしまっているペニスを慌ててシゴき、「今、立たせますから待ってて下さい」と情けない声で訴えた。
 すると乞食女は「動くな」と短く言った。僕が「えっ?」と首を傾げると、乞食女は薄暗い入口を獰猛な目でジッと睨みながら「喋るな」と小声で言った。
 そこで初めてこの状況に気付いた。慌てて後ろの戸に振り向くと、四つん這いの体をサッと伏せた乞食女が「来た」と呟いた。その瞬間、小屋の外の暗闇をガサッガサッと歩く足音がはっきりと聞こえたのだった。

 ギラリと銀色に輝く出刃包丁を握りながら、雑草だらけの闇を歩く乞食老人の姿が頭に浮かんだ。そして、その出刃包丁が、まるでうなぎの首をはねるように僕の亀頭をトンっ! と飛ばすシーンが鮮明に浮かんだ。
 自然にアゴが震え、無意識に「あわわわわ」と情けない声が出た。
 すると乞食女が「黙れ」と言いながら素早く立ち上がった。そして慌てて座敷の隅へ走ると、さっきうなぎの稚魚を捨てた床の戸をギギッと開けたのだった。

「早く!」

 乞食女が僕を睨みながら言った。ザクザクと聞こえる足音は間近に迫り、もはや一触即発の危機だった。
 僕は無我夢中で座敷の隅へと這った。しかし、そのぽっかりと開いた真っ暗な穴の中を見た瞬間、全身が硬直した。
 真っ暗な穴の中では漆黒の水がうねうねと渦を巻いていた。それはまるでコールタールをかき混ぜているかのように黒く、夜の川がこれほどまでに黒いものなのかとゾッとした。
 が、しかし、その「ゾッ」は、更に激しい「ゾッ」となり、瞬間に僕の奥歯をガチガチと鳴らした。そう、なんとその黒い渦は川の水ではなく、うなぎの大群だったのである。

「む、無理だ!」

 おもわず声が出た。すかさず乞食女が「黙れ!」と小声で睨みながら僕の首根っこを鷲掴みし、強引にうなぎの穴の中に押し込もうとした。

「無理です、絶対に無理です!」

 穴の両サイドの畳に手を付きながら必死にもがくと、そんな僕の右手の肘を乞食女がおもいきり蹴飛ばした。突っ張っていた僕の腕がガクンっと折れ、支えが外れた板のように僕の体は宙に浮いた。
 あっ、と声もなく、僕は頭から穴の中に突っ込んだ。瞬間、黒い渦の中に無数のうなぎの背びれが見えた。慌てて奥歯を噛み締めた。ドボンっと鈍い音が耳元に響き、一瞬にして水圧が鼓膜を圧迫し全ての音が閉ざされたのだった。

 全身が生温い水に飲み込まれた。遠くの方からプクプクプクという小気味良い音が聞こえ、顔、腹、足に、うなぎのヌルヌルが絡み付いた。
 底に足がつかなかった。何かにしがみつこうと必死に両手をバタバタさせると、ふと指の先に硬いモノが触れた。無我夢中でソレを掴むと、それは錆びた鉄格子だった。

 両手で鉄格子に捕まりながら、恐る恐る水中から顔を出した。頭上の板床の隙間から裸電球の光が漏れ、真っ黒な水をぼんやり照らしていた。真っ黒な水は常に蠢いていた。突然の侵入者にうなぎたちは慌てふためき、何百匹ものうなぎの白い腹が黒い水に浮かんでは消えた。

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 その穴は結構大きかった。小屋の真下の地面がごっそりと掘り起こされ、穴の広さは小屋とほぼ同じくらいの面積はあった。穴に溜まる水と床板までは約二メートルあり、水中の深さも二メートル近くはありそうだった。
 恐らく、以前の貸しボート屋が『いけす』として使っていたのだろう、穴は網が張られた鉄格子で囲まれ、流れ込む川の水が循環するように作られていた。

 気絶しそうなくらいに怖かった。地下の暗い水溜りに閉じ込められるというだけでも身の毛がよだつのに、尚かつここには数百匹の狂ったうなぎが黒い渦を作っているのだ。
 しかし、それにまして恐怖なのが、頭上から聞こえて来る物音だった。

 ガタガタガタっと戸が開く音と共に、「三和の野郎、足下見て一匹五十円だとほざきやがったから持って帰って来たべ」という乞食老人の濁声が聞こえた。床板が、ギシッ、ギシッ、と軋み、その隙間から乞食老人の黒い長靴の底が見えた。歩く度にその隙間からは小石や埃がパラパラと落ちて来た。
「ほれ、こいつら穴ん中に入れとけ」
 乞食老人は、うなぎの入ったバケツを乱暴に床に置いた。板がドスンっと響くと、その音に反応した水中のうなぎ達が一斉に蠢いた。

 ギギギッと床の戸が開くと、いきなり頭上から光りが差し込んだ。うなぎの大群に埋もれながら恐る恐る見上げると、ぽっかりと開いた床穴に乞食女の顔が浮かんでいた。
 乞食女のその表情は、背後にぶら下がる裸電球の逆光でよく見えなかったが、しかし、ギラリと輝く獰猛なその目は、ウナギの大群の中に潜む僕をしっかりと捕らえていた。
 僕はそんな乞食女の目を見つめ、視線で必死に命乞いをした。鉄格子を握っていた手を離し、素早く両手を合わせて無言で何度も頭を下げた。
 しかし、そんな命乞いも虚しく、乞食女はバケツに入っていた大量のうなぎをドバドバと穴の中に流し捨て、無情にもそのまま戸を閉めてしまったのだった。

 その後しばらくして、うなぎの蒲焼きの香りが漂って来た。乞食老人は、うなぎの蒲焼きを酒の肴に飲んでいるらしく、パタパタと団扇の音が響く中、三和はケチだとか、角栄が日本をダメにするなどと散々愚痴った後、突然、敏いとうとハッピー&ブルーの『わたし祈ってます』をアカペラで歌い出し、三回ほど凄まじい放屁をやらかした。

 ヘドロが絡み付くドロドロの鉄格子を握りながら頭上の床板を見つめていた。とにかく僕は、乞食老人が眠るのをひたすら待ちわびていた。というのは、この時僕は、既にこの穴から脱出できる『抜け穴』を見つけていたからだった。四方を囲む鉄格子の一部に、扉を発見していたのだ。
 但しその扉は岸辺にあった。例の渡し船のようなボートが繋がれている南側の岸辺、すなわち、今僕が身動きできなくなっている床穴の下は小屋の北東の角だから、その抜け穴がある南西の角というのは、今僕がいる場所からは最も距離が離れていた。
 一刻も早くその扉から脱出したかったが、しかし、この状態で小屋の端から端へ移動するのはかなり危険だった。今ここで僕が水の中で動けば、うなぎたちが暴れ出すのは火を見るよりも明らかなのだ。
 その音に乞食老人が怪しんだら一巻の終わりだった。だから僕は乞食老人が酔って寝てしまうのを、数百匹のうなぎに絡まれながら待ちわびていたのだった。

 しばらくすると、「そろそろ寝っぺか」という老人の声が聞こえて来た。やっとその声が聞けた頃には既に夜が明けており、暗い穴の中にも青い光りがぼんやりと差し込んでいた。
 床をのそりと起き上がる音が聞こえた。ミシっ、ミシっ、と足音が軋み、板の隙間から、酔ってフラつく乞食老人の赤銅色の顔が見えた。

「寝る前に、あいつらに餌をやらねぇとな」

 そう言いながら乞食老人は座敷に上がって来た。僕は慌てて水中に潜った。しかし、潜った瞬間、ヌルヌルとしたうなぎに顔面を包み込まれ、気色悪くなった僕は慌てて半分だけ顔を出した。
 かろうじて出ていた鼻で呼吸をしながら身を潜めていた。ギギギッと戸の開く音が頭上で鳴り、裸電球の明かりが水面を照らした。
 これだけ黒いうなぎが蠢いていれば、黒い頭部などバレっこないだろうと思っていたが、しかし、穴を覗き込んだ乞食老人はすぐさま僕の頭に気が付いたようだった。

「あららら、また浮いて来てるべ……」

 乞食老人はそう言いながら僕の頭を竹竿のようなもので突いた。いったい何と間違えているのか、乞食老人は「あっちいけ、あっちいけ」と言いながら僕の頭を竹竿で押しやった。
 押しやられたその流れに乗って、多少なりともそこから移動できると思ったが、しかしその時、突然血迷った一匹のうなぎが僕の唇の中に潜り込もうとしてきた。
 うなぎは穴の中に潜り込もうとする習性があった。だから乞食女はその習性を上手く利用し、膣の中にうなぎを潜り込せるという変態オナニーをしていたのだ。
 うなぎは僕の唇に頭をグイグイと押し付けながら、強引に唇をこじ開けようとしていた。ふと、口内に潜り込んだうなぎが喉に滑り込み、胃の中でうねうねと蠢くのを想像した僕は、頭を竹竿で押されながらも必死に唇を閉じていた。
 それを阻止するのが精一杯で、せっかくの流れに乗る事が出来なかった。それどころか、唇に侵入しようとするうなぎから逃れようとすればするほど僕の体は後退し、逆に床穴の真下へと戻って来てしまっていたのだった。

 そんな僕の頭を見下ろしながら、乞食老人は「しょうがねぇなぁ」と呟き、竹竿をパタンっと床に投げ捨てた。そして妙に甲高い声で「メシだメシだメシだよー」っと変なメロディーをつけて歌い出すと、そのままズボンをスルッと下し、ガリガリに痩せた尻を穴からポコンっと突き出したのだった。

 ゾッとしながら視線を真上を向けた。両サイドの尻肉が削がれた尻はまるで『ムンクの叫び』のようであり、その谷間の中心でポコンっと膨らんでいる肛門は、ザクロのように真っ赤に熟していた。
 嘘だろ、と思いながら、そのみるみると膨らんでいく肛門を見つめていた。肛門は限界まで膨らむと突然ビシっと弾け、中から茶色い汁が噴射した。
 シュシュシュシュシュ、バビビビビビビビ。凄まじい音と共に、乞食老人の下痢糞が僕の頭に降り注いだ。その瞬間、餌を撒き散らされたうなぎたちは狂喜乱舞し、水面はバシャバシャと激しく鳴り出したのだった。

 チャンスだった。これだけの音が鳴り響いていれば、おもいきりクロールしながら移動しても絶対に気付かれる事はない。
 僕は、狂喜乱舞するうなぎの群れに紛れながら水中に潜った。とりあえず髪に噴射された下痢糞を水中の中で洗い流し、そのまま獲物を狙うジョーズの背びれのように顔半分を出しながら、南西の角に向かって泳いだ。

 やっとの思いで南西の角に辿り着いた。餌に突進するウナギの群れに逆いながら泳ぐのは、かなりの困難だったが、それでも死に物狂いでなんとか鉄格子の扉にしがみつくことができた。
 幸いにも、ほとんどのうなぎは乞食老人の下痢糞に群がっていたため、扉の前には出遅れたうなぎが数匹潜んでいるだけだった。
 穴の隅では、小屋の柱が水中へと伸びていた。ボロボロに腐ったその柱には無数のタニシがくっつき、その奥の陸地には、一匹の巨大なムカデが無数の赤い足をウヨウヨと動かしながら移動していた。
 以前、『オロナミンC』の看板の下で小屋を覗いていた時、小屋の縁の下から這い出して来た巨大なムカデと遭遇したのをふと思い出した。あの時、まさか小屋の下にこんな穴が掘られているとは思ってもいなかった。そして、まさかその穴に自分が閉じ込められるなどとは夢にも思っていなかった。

 水面から少しだけ顔を出している扉を押してみた。押してもびくともしないため引いてみると、扉はかろうじてガタガタと動いた。
 しかし扉は、ガタガタと動くだけで開こうとはしなかった。水中の扉の前に『重し』のような物でも置かれているのか、それが邪魔をして扉が開かなくなっているのだ。
 鉄格子に捕まりながら水中で足を伸ばしてみた。何かが爪先に当たった。確かに扉の前には何かがあったが、但しそれは意図的に置かれた『重し』のような物ではなく、自然にそこに溜まったゴミのようだった。
 僕はギリギリまで水中に沈み、そのゴミのようなものを踏んづけてみた。するとそれは意外に柔らかく、一度蹴っただけで脆く崩れた。
 水中の中で砕けたゴミが、そこに蓄積されていた泥と共に上って来た。濁った水面に黒い帽子がぽっかりと浮かんだ。オレンジ色のジャイアンツのマークが、小屋と川の隙間から注ぎ込む黄色い朝日に照らされた。
 その後から白い棒のような物が次々に浮かんで来た。それは仙台のお婆ちゃんが毎年正月になると送ってくれる『笹かまぼこ』のような形をしていた。

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 改めて扉を引いてみた。さっきよりは開いたが、しかし、まだ何かが邪魔をしており、僕が抜けられるほど開いてはくれなかった。
 もう一度、水中に足を伸ばした。どうやらまだ何かが扉の下に挟まっているようだった。もはや潜るしかなかった。潜ってその物を扉の下から引き抜かなければ扉は開かなかった。
 思い切り息を吸い込み、そのまま水の中に浸水した。両手で鉄格子を握り、梯子を下りるようにして水中に下りて行く。鉄格子を二、三段下りたらすぐに足がついた。これだけの泥水ではさすがに目は開けられず手探りするしかなかった。
 左手で鉄格子に捕まりながら右手を扉の下に伸ばすと、石のような物が扉と地面の隙間に挟まっているのがわかった。その石には『藻』のようなものが生えていたため、それを掴んで思い切り引っ張った。するとそれは以外に軽い物であり、いとも簡単にズボッと抜けたのだった。

 潜っていたのはほんの数十秒だったにも関わらず、水中から顔を出すと辺りはすっかり明るくなっていた。バシャバシャと狂喜乱舞していたうなぎたちも落ち着き、水面は小屋の隙間から注ぎ込む朝日でキラキラと輝いていた。
 今度こそ扉は開くだろうと思いながら扉の鉄格子に手を掛けた。するとその時、何かが水中からぽっかりと浮かび上がった。
 それを目にした瞬間、僕は一瞬息が止まった。
 それは、さっき僕が水中の扉の底から引きずり出した物に違いなかった。藻だと思って引っ張ったのは髪の毛だったらしく、それは明らかに人間の頭部だった。

 朝の風と共に小さな波が立ち、鉄格子の向こうで繋がれているボートが、ちゃぷん、ちゃぷん、っと揺れていた。
 首からざっくりと切断された生首は、既に所々が白骨化していた。水中に押し込められていたせいか、皮膚は紫色に変色し、大きな水風船のようにブヨブヨに浮腫んでいた。
 それは僕のすぐ目の前でぷかぷかと浮いていた。目玉は無く、二つの穴だけが寂しく開いていた。鼻は原型のまま残っていたが、唇は魚に齧られたのかブツブツと千切れていた。

 一緒に浮いているジャイアンツの帽子から見ても、この生首は行方不明になっている児童に間違いなかった。それで、さっき乞食老人が僕の頭を竹竿で突きながら「あっちいけ、あっちいけ」と言っていた理由がわかった。やっぱりあいつらは子供を殺していたんだと思うと凄まじい焦燥感に襲われ、鉄格子を握る手がガクガクと震えた。

 一刻も早くここから逃げ出さなければと震える僕は、目の前でプカプカと浮かぶ生首を見つめながら扉を引くと、錆びた蝶番が軋み、水中でトランペットのような音が鳴った。
 生首を見つめたまま、恐る恐る後ろ向きで扉をすり抜けた。背中を向けた瞬間、いきなり襲い掛かって来るような気がして目が離せなかったからだ。

 鉄格子の外側に出ると、開いた扉に手を伸ばし、再び水中にトランペットのような音を鳴らして扉を閉めた。カチャンっと鉄格子が重なる音が響いた時、ふと、視野の上部に何かが飛び込んで来た。
 ハッ、と見上げると、小屋の床穴から乞食女がヌッと顔を出していた。
 豚のような顔が逆さまにぶら下がっていた。長い黒髪がだらりと垂らし、真っ赤に充血した三白眼の目が僕をジッと睨んでいた。

 冷たい水中で温かい尿が僕の下半身に広がった。
(殺される……)
 そう思った瞬間、更に僕を睨むもう一つの視線に気付いた。
 それは、鉄格子の向こう側でぷかぷかと浮いている少年の生首だった。
 少年のくり抜かれた両目の穴の中には二匹のうなぎが潜んでいた。
 二匹のうなぎは身動きひとつせず僕をジッと見つめていたのだった。



              ※



 平成二十六年。『およげ!たいやきくん』が既に懐メロになってしまった今、大和田川の河川敷の雑草の中にポツンっと建っていた掘っ建て小屋は跡形もなく、広い遊歩道になっていた。
 四十年ぶりに地元に帰って来た僕は、いつも通っていた土手の上から遊歩道を見下ろし、この生まれ変わった風景を複雑な気持ちで眺めていた。

 あの日僕は、ずぶ濡れになりながらこの土手を走った。家に帰り、着替えもせずに布団に潜り込み、三日間カーテンを閉め切ったまま、一人部屋で震えていた。

 言えなかった。行方不明の少年があの小屋の地下でプカプカと浮いている事を誰にも言えなかった。すぐに警察に言わなければと思ってはいたが、しかし、あの時に見た乞食女の逆さまの目がいつまでも僕の心臓を鷲掴みにしており、言わなければと思う度に僕の心臓を締め付けた。

 結局、僕はそれを胸に秘めたまま高校を卒業し、何もなかったかのようにさっさとこの町を出て行った。
 そして時代は大きく変わった。あのエネルギッシュだった昭和の時代は悉く否定されるようになり、ゆとりある穏やかな時代へと変貌した。
 四十年ぶりに訪れたこの河原には、もう使用済みコンドームは落ちていなかった。シンナー遊びのビニール袋も、雨に濡れたエロ本も、不法投棄された粗大ゴミも見当たらなかった。
 緑の木々に包まれた河川敷。ヘドロの匂いが消えた大和田川。そして穏やかな風と光りに満ちあふれる遊歩道。
 しかし、人間という獰猛な生き物がいる限り、いくら表向きを穏やかに見せていても裏は荒々しいはずだ。
 そう思いながら芝が綺麗に苅られた土手を下りていくと、やっぱり川沿いにホームレス達の住処が見えた。わざとらしく植えられた緑の木々の裏に、まるで隠れるようにしてひっそりといくつものブルーシートのテントが並んでいた。

 ちゃぷん、ちゃぷん、と波打つコンクリートで固められた川辺に立った。そこは、四十年前、乞食女が放尿していた場所であり、そのすぐ横は小屋が建っていた場所だ。
 例の穴のせいか、小屋が建っていた部分だけ、明らかに川の色が違っていた。そこ以外は水底が透き通って見えるのに、穴の部分だけは深緑に濁っていた。

 あの少年の生首はどうなったんだろう……
 あの大量のうなぎ達はどこに行ったんだろう……

 そう思いながら深緑の水に四十年前の記憶を手繰っていると、ふと、立ち並ぶブルーシートの奥から、一人の老婆がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
 老婆は青いバケツを手にしながら、斜めに傾いたコンクリートの水辺をヨロヨロと歩いてきた。そして深緑に濁った穴の前で足を止めると、そこでジッと立ち竦んでいた僕を黄色く濁った目でジロっと一瞥し、そこにバケツの中の物をバッと撒き散らした。
 茶色い汚物が深緑の水面に広がった。辺りに糞尿の匂いが漂ったが、しかし、僕は風上にいたため、一瞬プンッと匂っただけだった。
 老婆は糞尿が溜まっていたバケツを川に突っ込み、ザバザバと乱暴に濯ぐと、そのまま立ち去ろうとした。
 咄嗟に僕は、「あの……」と老婆を呼び止めた。
 老婆は砂利をジリッと鳴らしながら足を止めると、ゆっくりと僕に振り返った。

 貪よりと濁ったその目に見覚えがあった。
 それは、四十年間僕を苦しめて来た目に間違いなかった。
 僕は大きく息を吸った。そして老婆を真正面から見返しながら、「ここで、うなぎは穫れますか?」と聞いた。

 生温かい風が緑の木々をざわざわと揺らした。対岸に立つ大きな病院から、「内科の島田先生、第二医務室までお願いします」という業務放送が風に乗って聞こえて来た。

「……知らん……」

 老婆は顔色一つ変えずそう答えた。
 その瞬間、四十年間の呪縛から解放された気がした。

 老婆はゆっくりと前を向くと、斜めに傾くコンクリートの水辺をヨロヨロと歩き出した。
 そんな老婆の小さな背中を、僕は穏やかな風と光りに包まれながら無言で見つめていた。

 僕の中で燻っていた昭和が、今やっと終わろうとしていた。

(うなぎの穴・完)



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