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吐泥(へろど)16

2013/06/13 Thu 00:01

 慌ててトイレから飛び出した。きっとあのババアは、さっき私があのジジイの言われた「バカモノ」を聞いていたに違いなく、だからあのババアは、私の事をホモで露出狂の変質者だと思っているはずだった。
 警察に通報でもされたら厄介だと思った。急いでここから立ち去ろうと妻が待つ書店に向かった。
 しかしそこに妻の姿はなかった。書店の隣りにあるCDショップも、そのまた隣りにある文房具店も全て探してみたが、妻の姿はどこにも見当たらなかった。

(逃げた……)

 そう愕然とする私は、CDショップの店頭にズラリと並べられている『新潟ロマンスグレー』というCDジャケットを呆然と見つめながら立ち竦んでいた。
 妻が逃げるわけがなかった。ましてこんな場所で突破的に逃げるなど考えられなかった。そんな事はわかっていた。わかってはいたが、しかし、今まで自分が妻に対して行ってきた行為があまりにも酷すぎたため、その罪悪感がそんな恐怖を作り出したのだ。

(もしかしたらあいつは、本当は嫌だったのかも知れない……私が勝手にあいつを淫乱だと決めつけていただけで、本当はあいつは、私の変態プレイが嫌で嫌で堪らなかったのかも知れない……)

 そう思いながら私は激しい焦燥感に駆られていた。その小さな店の店頭に三百枚近く並んでいる『新潟ロマンスグレー』のCDに不審の念を抱く事もなく、それを歌っている地元演歌歌手が、『田中角斗』という名前だという事にも何の違和感を感じる暇もなく、ただただ妻に逃げられたという恐怖妄想に襲われていた。

『にっ、ににににに新潟ぁ〜♪ 流れ流れて新潟ぁ〜♪』

 山積みにされたCDの真ん中に丸型のCDプレイヤーが置いてあり、『新潟ロマンスグレー』が垂れ流しにされていた。どこかで聞いたことのあるそのアップテンポなメロディーは、明らかに何かをパクっているようだった。そんな『新潟ロマンスグレー』のサビが、暗雲立ち込める私の頭の中で延々とリピートされていた。その百姓のような面構えをした『田中角斗』のポスターを見上げていた私は、そこでふと、(もしかしたら妻は誰かに連れて行かれたのかもしれない)という、また新たな妄想を抱き始めた。

 確かに今の妻は欲情していた。日頃はセックスに対して消極的だったあの妻が、なんと新幹線の中で「入れて」と要求してくるほどに狂っていたのだ。しかも新幹線でのその行為は中途半端だった。わざと欲求不満にさせようと、意図的に中途半端にしていたため激しく欲情しているはずだった。
 今の妻なら、誰が見ても悶々としている事に気付くはずだった。男なら、妻のあのいやらしい胸や尻から溢れる卑猥なフェロモンに気付かないわけがなかった。だから妻は、どこかの男に声をかけられ、フラフラと付いて行ってしまったのかも知れなかった。そして今頃は、既に駅裏辺りの鄙びたラブホに連れ込まれ、複数の男達に陵辱されているのかも知れない……

ウツボ64

 そのシーンが頭に浮かぶなり、思わず私は「ひっ」と小さな悲鳴をあげて肩を窄めていた。すると、そんな私の一部始終を山積みのCDの裏から見ていた若い女店員が、私と同じように「ひっ」と小さな悲鳴をあげて肩を窄めた。
 私はその店員をギロッと睨むと、「キミ」と声をかけた。店員はCDの隙間から恐る恐る私を覗きながら、蚊の鳴くような声で「はい」と返事をした。「妻を探してるんだが……」と言いながらその店員をまじまじと見下ろした。赤い縁のメガネを掛けた丸々と太った女の子だった。その丸いメガネのレンズにはやたらと大きな目が浮かび、まるで昔のTVアニメのアラレちゃんのようだった。

「三十前後で黒い服を着てるんだけど、見なかったかね」

 そう聞くと、店員は「黒い服……」と呟きながら首を傾げた。肉まんのような二重あごが右に傾き、ぐにゃっと潰れてはカバの尻肉のように歪んだ。そんな店員の顔は、角度によってはアラレちゃんではなくケント・デリカットに見えた。
 そのまま暫く停止していた店員だったが、ふと、顔を傾けている右の通路を見つめながら「あっ」と目を開き、「もしかして……あの人じゃないですか?」と通路の奥を指差した。
 慌てて振り返ると、通路の奥にある近畿日本ツーリストのパンフレットラックの前に妻がいた。いつの間にそこに居たのか、妻はスーツを着た男と何やら話し込んでいた。
「あっ、あれだ」と走り出そうとしながらも、私はもう一度店員に振り返った。そして『新潟ロマンスグレー』のCDを指差しながら、「こいつは誰だ」と店員に聞いた。すると店員はCDの隙間から私をジッと見ながら「知りません」と即答した。「知らないのになぜこんなに宣伝している」と矢継ぎ早に聞くと、店員はなぜか自信に満ちた表情を浮かべながら「知りません」とキッパリと答え、突然CDプレイヤーの音量を最大に上げたのだった。

『にっ、ににににに新潟ぁ〜♪ しのびあう恋、新潟ぁ〜♪』

 そんな恥ずかしいムード歌謡を背景に私は通路を走り出した。突然鳴り響いた田中角斗の歌声に、妻とその男が同時に振り返った。
 妻は私に気付くなり「ねぇ」と手を挙げた。しかし男は複雑な表情を浮かべながら黙って私を見ていた。
 そんな男の表情から、この男は妻を誘惑していたに違いないと思うと、不意に『新潟ロマンスグレー』のアップテンポな曲が私に闘志を沸かせ、このままその男に飛び蹴りを喰らわしてやりたくなった。
 が、しかし、二人に近づくにつれ、そんな私の闘志はみるみる失せていった。なんとそのスーツを着た男は、さっきトイレで私に「バカモノ」と吐き捨てた男だったのだ。
 しまったと思いながらも、慌てて足を止めた。しかし既に私は二人の前に立っていた。チラッと男を見ると、男も私に気づいているらしく不敵に私を睨んでいた。この男とさっきの清掃婦の証言が一致すれば、今夜の私は新潟警察署に宿泊だ。
 私は素早く男から顔を逸らし、そそくさと妻に「行くよ」と告げた。
 すると妻は「ねぇ、これ見てよ」と言いながら、近畿日本ツーリストのショーウィンドゥに貼ってあるポスターを指差した。
 それはホテル日航新潟のポスターだった。そこに『ばかうけ展望室』と書かれており、妻はそれを指差しながら「ここに行ってみようよ」と言っているのだった。
 正直、行きたくなかった。展望台から新潟の町など見下ろして何が楽しいのだと激しくそう思った。それに、その『ばかうけ』という名前がまた憎たらしい。田中角斗にしろ、これにしろ、どうして新潟はわざわざ憎たらしいネーミングをつけたがるのだろう。
 無性に腹が立ってきた私は、「今夜は別のホテルを予約してるから今度にしよう。さ、行くよ」と妻に言いながら、そそくさとその場を立ち去ろうとした。すると、いきなりそのバカモノ親父が「ここは宿泊客じゃなくても無料で入れますよ」と口を挟んできた。たちまち妻もそれに同乗するかのように、「そうなんだって。だからちょっとだけ行ってみようよ」と私の袖を摘んだ。そしてオモチャをねだる子供のように私の腕をブラブラと振ったのだった。

「わかったよ……」

 仕方なくそう頷きながら私は歩き出した。妻も一緒に歩き出しながら振り返り、バカモノ親父に向かって「ありがとうございました」と愛想を振りまいた。ソッと振り返ると、バカモノ親父はいやらしい笑みを浮かべながら妻に手を振っていた。
 そんな親父を見た瞬間、ふと、きっとこの親父は、妻のいやらしい体をジロジロと視姦しながら観光案内をしていたんだと思った。妻のその大きな乳肉に顔を埋めている自分を想像しながら、その『ばかうけ展望室』などというどうでもいい観光地を紹介したに違いないと思った。

★ウツボ64

 そう思うなり、そんなスケベ爺にいきなりバカモノ呼ばわりされた怒りが再び蘇った。
 カッと頭に血がのぼるなり、私は思わず「あんた!」と叫んでいた。ラックの前にしゃがみながらパンフレットを補充している親父は「ん?」と驚きながら顔を向けた。
 私は親父に向かってツカツカと歩きながら、(想像してただろ……想像してただろ……今お前は、くだらない観光案内をしながら、私の妻のアソコの色や匂いや味を想像していただろ……そしてそこに顔を埋めながら、犬のようにそこらじゅうを嗅ぎ回り、そして蛇のようにヌルヌルと舐めるのを想像してただろ……)とブツブツと呟いていた。そして、本当に親父にそうされている妻の姿を妄想し、同時に亀頭をズキンっと疼かせた。

★ウツボ65

 親父の前で足を止めると、親父は不審げな表情を浮かべながらゆっくりと立ち上がり、「何か?」とタバコ臭い息を吐いた。

「実はね、私は聖路加病院の医師なんだよ。だからさっきあんたが小便しているのをジッと見てたんだよ。ズバリ教えておいてあげるけど、あんた、とっても危険だよ。あんたのあの排尿の症状は間違いなく前立腺ガンだ。うん。恐らくステージ4だ。一刻も早く手術しないと手遅れになるぞバカモノ」

 咄嗟にそんなデタラメがベラベラと口から出た。
 親父はポカンっと口を開けたまま黙って私の話を聞いていた。
 言うだけ言うと、そのまま早々と逃げた。走りながら振り返ると、親父は「えっ?」と唸ったまま亀のように首を伸ばしていた。
 ざまあみろ。

ウツボ65

(つづく)

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変態

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