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    1キングコブラ




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 第三特別B病棟。
 この巨大精神病院で、病棟に「特別」が付けられているのは、この第三特別病棟だけだった。
 ここは特に症状の酷い患者や院内で事件や事故を起こした患者が閉鎖される、いわゆる保護房的な病棟だった。
 この第三特別病棟にはAとBがあった。「B」というのは女性患者を意味しており、「A」は男性を意味する。そう、僕が新しく配属されたこの第三特別B病棟は、精神病院の中でも特に問題のある女性患者ばかりを隔離した閉鎖病棟なのだった。

 先月からこの精神病院で働くようになった僕は市原壱男。看護士の資格を持つ28才。
 そんな僕は、過去に一般病院を三度も解雇されている。
 一般病院を解雇された原因は、三つの病院全て破廉恥行為だ。
 一度目の病院では看護婦のトイレを覗いている所を発見されその日のうちに追い出された。
 二度目の病院では患者の下着を洗濯機から盗み出したのを見つかり首になり、そして三度目の病院では、意識不明の少女の体を悪戯していたのが発覚し即刻病院を叩き出された。

 こんな僕を何の偏見もなく拾ってくれたのが、この情愛病院だった。
 この情愛病院という精神病院は何かと問題の多い病院だった。
 クスリ漬け、虐待、人体実験・・・・
 そんな噂が飛び交う病院だったが、しかし今の僕は病院を選んでいる立場ではなかった。
 いや、むしろ、こんな僕にとってはうってつけの病院だったかも知れない。


 第三特別B病棟へと案内される僕は、一般病棟と第三特別B病棟を繋ぐ真っ白な渡り廊下を歩きながら、特Bを受け持つ鏡嶋主任から説明を受けていた。
「キミは、月・水・金・日の週4日の夜勤をしてもらうだけだから、それほど難しく考えなくてもいいよ。要するに、守衛だよ。夜間の守衛さん」
 そう笑う鏡嶋主任は、薄汚れた白衣を風にタラタラと靡かせながら、気怠そうにスリッパをスタスタと鳴らしては先を急ぐ。

「夜になっちゃえばね、あいつらクスリが効いて寝ちゃってるから大人しいもんだよ。簡単簡単」

 鏡嶋主任はそう言いながら渡り廊下の突き当たりにある「関係者以外絶対立ち入り禁止」と書かれた鉄の扉に鍵を差し込んだ。
 ガタン!っという重苦しい鍵の音が響くと重圧な鉄の扉が開く。鏡嶋主任はそんな重圧な鉄扉を見つめながら、特Bの患者達がどれだけ叫んでも外に声が洩れないようになっているんだ、と自慢げに、ふふふふっと笑った。

 そんな鉄扉の先にはコンクリート剥き出しの階段が延々と地下に続いていた。
 その階段は、まるで地下のボイラー室へ繋がる階段のようで、とてもこの奥に病棟があるとは思えない、そんな薄ら淋しい階段だった。
「この階段を右に行くと男性患者の特Aね。うちの特Bは左の階段。みんなよく間違えるから間違えないようにね」
 鏡嶋主任はそう説明しながら、コンクリート剥き出しの階段をスタスタと降りて行ったのだった。

 階段を降りると、さっそく鉄格子のゲートが現れた。
 よく、精神病院というと刑務所のような鉄格子をイメージするものだが、しかしここの一般病棟には鉄格子などという物騒な物はなかった。かろうじて病室の窓に白い鉄柵が取付けられていたが、それはどこの家庭にもありそうな穏やかな鉄柵で、「鉄格子」などと呼ぶ程の大袈裟なものではなかった。
 しかし鉄格子はここにあった。
 やっぱり鉄格子はあったのだ。

 そのヤケに年期の入った不気味な鉄格子に、口笛を吹きながら鍵を押し込む鏡嶋主任にさっそく僕は尋ねてみた。
「これは脱走防止の為の鉄格子ですか?」
 すると鏡嶋主任はギャン・・・っと錆びた音を鳴らして鉄格子を開けながら、「そ。あいつらすぐに脱走しようとするからね」と呟き、そしてまたギャン・・・・っと鉄格子を閉めたのだった。

 鉄格子のゲートを抜けると、それまでコンクリートが剥き出しだった壁は白いペンキで塗られていた。
 突き当たりに小さな部屋があり、そこには「管理室」と書かれたプレートが掲げられていた。
 鉄格子のゲートから管理室へ向かう通路の間にもう一本の通路があった。その通路の右側にはズラリと鉄の扉が並び、そこが患者達を収容する房だということがわかった。

「前園君?」
 鏡嶋主任はそう言いながら、大きなアクリル窓のある管理室の扉を開けた。
 管理室の中は六畳ほどのスペースで、その中に簡易ベッドと事務机、そして事務机の前の壁にはズラリと監視モニターが並んでいた。
「前園君?」
 鏡嶋主任がもう一度そう言いながら部屋の中を覗く。部屋の中には食べかけのカップラーメンが湯気をあげているだけで、人の気配は感じなかった。
「あれ?どこ行ったのかなぁ前園君・・・・」
 鏡嶋主任がそう言いながら鉄扉がズラリと並ぶ通路へスタスタとスリッパを鳴らしガランとする通路に向かって叫んだ。
「前園くーん!」
 鏡嶋主任の声がその通路に響いた瞬間、その通路になんとも言えない不気味な声が一斉に鳴り響いた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「あぎゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃ!」

「ウホォォォォォォォォォォォ!」

 そしていくつかの鉄の扉がドシン!ドシン!と揺れ始め、どこからか食器を床に叩き付けるようなカンカンカン!という音が聞こえて来る。
 それはまるで飼育係がエサを持ってやってきた時の動物園のような騒がしさだった。

「あぁ、私の声に患者が反応してるだけだから、心配しなくていいよ」

 鏡嶋主任は、それらの叫び声に完全に度肝を抜かれてしまっていた僕にそう笑いかけながら、もう一度「前園くーん!」と大きな声で叫んだ。
 するといきなり8室並んでいる1番奥の部屋の鉄扉がスッと開いた。と同時に、喧噪の続く廊下にトタンのバケツを手にしたおっさんがヌッと出て来た。
「あぁ、前園君、ちょっと!」
 鏡嶋主任はそのおっさんにそう手を振りながら、そのまま管理室の中に入って行ったのだった。

 僕は、その60半ばだろうと思われる薄気味悪いおっさんにペコリと会釈をして、おっさんがこっちに来るのを待っていた。
 ゆっくりと通路を歩いて来るそのおっさんの作業ズボンはベタベタに濡れ、そしてなぜかズボンのチャックが全開になっていたのだった。


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 前園さんは無資格の看護者で、病棟の修繕や清掃、患者への配食から患者の洗濯までなんでもやってくれる、いわゆる用務員さんのような存在だった。

 先程僕は、前園さんを60半ばだと思ったが、しかし実際の年齢はまだ38才だった。
 それほどこの前園さんは老けており、その暗い表情にはまったくの覇気が見られず、まるでウツ病患者のようだった。

「八号室の患者が、また失禁しましてね・・・・」

 前園さんは、鏡嶋主任や僕から目を背けるようにそう呟くと、黄色い水がたっぷりと染み込んだ雑巾と、同じく黄色く湿っている下着らしきものが入ったトタンバケツをカタンっと床に置いた。
 そんな前園さんを見て、僕は一瞬「えっ?」っと思った。
 というのは、通常、女性の患者が失禁した場合、女性看護士がその処理をするのが普通なのである。
 僕は、「まさかこの人が・・・」っと思いながら、壁に設置されている監視モニターの「8」と書かれたモニターにふと目をやった。
 そこには、まだ30代と思われる髪の長い女が、ベッドに座ったまま壁をジッと見つめている姿が映っていた。
 仮に、患者が寝たきり老人というのならいざ知らず、しかしそのモニターに映る8号室の患者は30代の女性である。そんな女性の汚物処理を男性職員がするなど、一般の病院では考えられない事だ。
 しかも下着まで・・・・・
 しかし、鏡嶋主任はそんな前園さんに向かって、平然とした表情で「暴れたの?」っと、前園さんのベタベタに濡れた作業ズボンを指差しながら聞いた。

「えぇ・・・少しだけ・・・・」

 前園さんは、作業ズボンに付いている女性患者の小便と思われるシミをガサガサと手で拭きながらそう答え、そこで初めて自分のズボンのチャックが開いている事に気付き、慌ててチャックを閉めていた。
 鏡嶋主任はそんな前園さんに平然と「ふ~ん」と頷くと、そのまま僕を紹介した。

「今度、松川君の代りに特Bの夜勤をやってもらう事になった市原君」

 僕が「よろしくお願いします」と挨拶をすると、前園さんは僕の目を見ないまま黙ってペコッと頭を下げた。
「まぁ、彼は私よりもこの特Bは古いからね。何かわからない事があれば前園君に聞けばいいよ」
 鏡嶋主任はそう笑うと、前園さんを覗き込み「ねっ」と戯けるが、しかし前園さんはピクリとも笑わなかった。
「キミが当直以外の日は、前園君が当直に入ってくれているんだ。だから、まぁ、患者の情報交換なんかしながらさ、2人で仲良く協力し合って、事故が起きないようによろしく頼みますよ」
 鏡嶋主任は、黙りこくったままの前園さんの肩をポンポンと叩きながらそう言うと、そのままニヤニヤと笑いながら管理室を出て行った。

 そんな鏡嶋主任が鉄格子のゲートを潜って行くのを上目遣いでジッと見つめていた前園さんは、鏡嶋主任の姿が通路から消えるなり「死ね・・・」っと小さな声で呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。


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 管理室に2人きりになると、いきなり前園さんが僕を見てニヤッと笑った。
 そして、鏡嶋主任が出て行った方をチラッと見ながら「あいつ、タヌキ野郎だから気を付けた方がいいですよ」と、虫歯だらけの前歯をムキ出してひひひひっと笑った。

 僕はそんな不気味な笑顔を見せる前園さんをどこかの海賊みたいだと思いながらも、どうして鏡嶋主任がタヌキ野郎なのかと気になったが、しかし、就任当日から主任の悪口を言うのもあまり気が進まず、僕はそれには取りあえず笑って答えておいたのだった。

 さっそく前園さんが病棟を案内してくれる事になった。
 前園さんは、「その前に、ちょっと・・・」と言いながら管理室の隣にある浴室の脱衣場に入ると、トタンバケツに入っていた汚物をそのまま洗濯機の中にバシャっと投げ入れながら「汚ねぇなぁ、ったくぅ」と舌打ちをした。

「患者の洗濯も前園さんがやるんですか?」
 僕は病棟の廊下を進みながら前園さんに聞いた。
「そうです。ここの患者は糞をちびったりしますからね、本棟では受け付けてくれないんですよ・・・」
 前園さんはひひひひっと笑いながらそう答え、「一号室」と鉄の扉の前で足を止めたのだった。

 管理人室の正面にある一号室には患者はいなかった。
 この部屋の扉は、全面に鉄格子が張り巡らされ、その隙間に透明のアクリル板がガッシリと嵌め込まれていた。他の部屋の扉は、鉄の扉の上半分が透明のアクリル板となっているのに対し、この扉だけは全面が透明アクリルになっており居室の中は隅々まで丸見えだった。

 そこには患者のプライバシーもへったくれもない。
 僕はそんなアクリルの扉に恐る恐る触れながら、先程、扉がガンガンと揺れていたのを思い出した。
「あぁ、大丈夫ですよ、それ強化アクリルですから。動物園のゴリラの檻と同じ物使ってますからね、どれだけ体当たりしても絶対に割れませんから」
 前園さんは心配そうな僕の顔を見ながらそう笑うと、ガチャガチャと音を響かせながら一号室の扉の鍵を開けたのだった。

「この一号室は、保護房と呼ばれる部屋です。特に興奮している患者や、暴れる患者なんかをぶち込んでおく部屋です。だから私物は一切ないし、管理室からも監視できるようになってます」
 前園さんは、クッションが張られた壁を指で押しながらそう説明した。
 4畳半のこの部屋は、確かに何もないただの箱だった。
 窓ひとつない壁には追突防止の為のクッションが張り巡らされ、床には真っ黒に汚れたスノコが置いてあった。
「ここは、暴れる患者の他に、新入も入る事になってます。本棟から特Bに連行されてきた患者はまずこの部屋に隔離され一週間監視されます」
 前園さんはそう説明しながら、ふいにびっくりするほど高い天井の隅を指差し、僕の耳元に顔を近づけては妙に小声でこう言った。
「この部屋だけ、本棟の監視カメラが付いてるんです・・・・」
 前園さんが指を差した天井の隅には、丸い形をした監視カメラが設置されており、数秒ごとに赤い点滅ランプを光らせていた。

「この部屋には水道やトイレはないんですか?」
 僕は、首吊り防止の為に、異様に高くなっている天井を見つめながら前園さんに聞いた。
「水道はありません。ここに入る奴らは水道の水を出しっぱなしにしたりしますからね。患者が水が欲しい時はこのボタンを押すんです。すると・・・・」
 前園さんはそう言いながら入口にある赤いボタンした。
「ほら、管理室のライトが点滅するでしょ、これで職員を呼ぶわけですよ。そうしたら我々がコップに水を汲んで、ここの穴から渡してやるんですね・・・・」
 前園さんはそう言いながら、ドアの横の壁に開いている穴に手を入れ、廊下に飛び出した自分の手をパタパタと振って見せた。
「トイレは?」
 僕は部屋を見回しながら聞いた。
「トイレもありません。だから、トイレの時も水が欲しい時と同じですよ、患者が大小便をしたくなったらこのボタンをポチッと押すんです。すると管理室が点滅しますから、我々が汚物缶を持って来て、この穴から渡してやればいいんです。患者の汚物はそのまま管理室のトイレに捨てて下さい。ただ、患者によっては検査の関係などで捨てちゃダメな場合もありますからね、まぁ、そこは事前に担当医から説明があると思いますけど・・・」
 前園さんはそう言いながら一号室から出た。
 前園さんの後に続く僕は、この保護房にソッと振り向きながら、その部屋がナチスのアレよりも酷いと思いながら、密かに背筋をゾッとさせたのだった。

 そのまま隣の二号室のドアの前に立った。
 その部屋にも患者はいなかった。隣の保護房の全面アクリル扉とは違い、この部屋の扉は上半分だけが透明アクリル板で後は頑丈な鉄扉だった。保護房の扉よりは多少なりともプライバシーは守られているようだが、しかし、どっちにしろ廊下から部屋の中は丸見えだった。
 そんな強化アクリル付きの鉄扉を開けて中に入ると、隣の一号室よりは人間らしい雰囲気が漂っていた。

「ここは一般房です。隣の保護房以外は、全部同じです」

 前園さんはそう言いながら、「本棟の監視カメラもありませんから」と、ポツリと呟いた。

 その部屋の壁は、コンクリートの壁に真っ白なペンキが塗られ、所々には茶色い模様が施されていた。
 六畳の部屋には、壁に取付けられた戸棚とマットのない骨組みだけの簡易ベッドが置いてあるだけで、テレビや冷蔵庫といった物は一切見当たらなかった。
 そしてやっぱり窓はなかった。しかし異常に天井が高い為かそれほど圧迫感は感じられなかった。
 そんな天井の隅に、隣りと同じ丸い監視カメラが赤い点滅を繰り返していたが、それは本棟には繋がっておらず、ここの管理室専用のカメラだと前園さんは嬉しそうに説明した。
 トイレは、部屋の奥の床にポッカリと開いている穴だった。
 便器のない、床にポッカリと開いたただの四角い穴。そこには隠す仕切りは何もなく、患者は尻を剥き出しにしたままその穴にしゃがまなければならなかった。しかも廊下から居室の中は丸見えなのである。
 そんなトイレの穴を僕がジッと見つめていると、いきなり前園さんがぎひひひひひっと下品な笑い声を上げた。
「市原さん、今、想像してたでしょ?」
「えっ?・・・な、何をです?」
「ふふふふ、患者が糞を垂れるシーンを・・・・」
「・・・・・・・」
 モジモジする僕を見て、前園さんは再び下品に笑った。
「でもね、ほとんどの患者はこの穴を使わないんですよ・・・・」
「・・・っといいますと?」
「えぇ、ここの特B患者は特にイカれたヤツばかりですからね、こんな穴を使わずにそこらじゅうでブチブチブチってね・・・・」
「ブチブチ!・・・・・」
 僕は、ふと壁に描かれた茶色い模様に目をやった。
「そう、それも糞です。あいつらテメェーの糞を壁に塗り込んだりしてウンコアート作ったりしますからね・・・」
 それを聞いた僕が、「うわっ」と慌ててその茶色い模様の壁から飛び退くと、前園さんはうひひひひひっと虫歯をムキ出して笑いながら二号室を後にしたのだった。


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「こいつはね、重症のアル中患者です・・・・普通の時は普通なんですけど、時々、幻覚を見ては暴れ出すんですよ・・・」

 前園さんは三号室の扉を覗き込みながらボソボソと説明を始めた。
 三号室の患者は、一見、普通の主婦に見える三十代の中年女性だった。
 浴衣のような緑色の院内着を大きくはだけたまま、ベッドの上で大の字になって鼾をかいでいる。その、はだけた院内着からはブヨブヨの乳房がダラリと顔を出し、干しぶどうのような萎れた乳首が黒々と輝いていた。

 前園さんはそんな患者が寝ている三号室の扉の鍵をガチャガチャと開け始めた。
「大丈夫ですか?」
 僕はとたんに恐ろしくなり、鍵を開けている前園さんの顔を覗き込んだ。相手は女と言えど気が狂っているのである。ついさっき見たあの暴動のような騒ぎが僕の頭の中に甦ってきた。
「はははは、大丈夫ですよ。こいつはさっきダンプカーに追いかけられる幻覚を見ましてね、それで強力なクスリを投与されましたから、絶対に目を覚ましません・・・・」
 前園さんはそう笑いながら三号室の扉を開けたのだった。

 閉め切られた三号室は、ペットショップのような悪臭が漂っていた。
 前園さんはグーグーと鼾をかいでいる患者の横をスタスタと通り過ぎると、奥にある便所穴の蓋をソッと開けた。

「おっ、ミッちゃん、ちゃんとウンチしてるじゃないか・・・・」

 前園さんは便所穴を覗き込みながら嬉しそうに微笑む。

「いやね、こいつは何度言ってもこの便所で糞をするのがイヤだって言いましてね・・・だから便秘になってたんですよ・・・」

 前園さんはそう言いながらベッドで鼾をかく患者に近付くと、患者の乱れた髪を優しく整えながら「だから今朝方、浣腸してやったんですけどね・・・ふふふふ、やればできるじゃないかミッちゃん・・・」と、信じられないような言葉を吐いた。
「えっ?・・・今朝方って・・・前園さんが浣腸したんですか?」
 僕が驚きながらそう聞くと、前園さんはさも当然な表情で「そうですよ」と答えた。

 男性職員が女性患者に浣腸をする・・・・
 しかもここは閉鎖された特別病棟だ・・・・
 僕は、ベッドに横たわる患者を見ながらこの患者はそれを拒否しなかったのだろうか?と不思議で堪らなかった。

「ミッちゃんはね、幻覚さえ見てなけりゃ普通の女なんですよ・・・だから、あんな穴の中に糞をするのは恥ずかしくてできなかったんです・・・・」

 前園さんは患者の乱れた院内着を整えながら、まるで我が子を愛おしむかのように優しく語った。
 そんな前園さんを見て、僕はついこう言ってしまった。
「でも・・・男の人に浣腸されるくらいなら・・・その穴でしたほうが・・・・」
 前園さんはそんな僕の話を聞いているのかいないのかそれには何も答えず、いきなり患者のブヨブヨの乳房を優しく揉み始めた。

「ほら、まだまだ女としては十分な体なんですよ・・・ミッちゃんも酒さえヤメれたらねぇ、いい奥さんになれただろうに・・・」

 前園さんはそう呟きながら、タプタプの乳肉を愛おしそうに揉み解すと、何事もなかったかのようにそれをソッと院内着の中に押し込み、「それじゃ、隣、行ってみましょう・・・」っと僕の目を見ないまま、三号室を出て行ったのだった。


 隣の四号室の患者は、かなり危険な雰囲気を漂わせていた。
 さっき、狂ったような叫び声が廊下に響いていた時も、確か、この四号室の扉が特に揺れていたはずだ。

「こいつはね、薬物依存症なんです。イボ痔が疼く猿みたいに凶暴ですから気を付けて下さいよ・・・」

 前園さんがそう言うと、髪を茶髪に染めたその患者は、いきなり僕らが覗き込むアクリルのドアに「ビッ!」と唾を掛けた。

 二十代後半と思われるその患者は、いかにも水商売風な雰囲気を漂わせていた。
 前園さんが、そんな患者をアクリル板からジッと覗きながら、「こいつはね、元々は真面目なOLだったらしいんですけどね、悪い男に引っ掛かっちゃってね・・・・シャブを教え込まれて夜の街で働かされて、挙げ句の果てには特別病棟ですよ・・・哀れですね・・・・」と、あざけ笑うかのようにそう呟くと、その声が聞こえたのか、いきなり居室の中の患者が「うるせぇなぁ変態野郎がぁ!」と叫び、もの凄い勢いでアクリル板に体当たりをして来た。
 鉄扉に嵌め込まれたアクリル板は、激しい衝撃を受けながら「ゴワワワワン・・・・」っと音を響かせるがビクともしなかった。
 患者は、体当たりした際に肩をぶつけたらしく、細い手で左の肩を擦りながらも「死ね!」という言葉を連続して叫びまくっていた。

 そんな患者の院内着は大きくはだけ、叫ぶ度に大きな乳房がタプタプと揺れているのが見えた。
 ウエストはキュッとくびれ、その分、大きな尻が更に大きく強調されている。そんなムチムチの下半身には真っ赤なパンティーがギュッと食い込み、そしてそのパンティーの股間部分は失禁による湿りが黒いシミとなって大きく広がっていた。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」

 茶髪の患者がアクリル板に顔を押し付けてそう叫ぶと、アクリル板は彼女の息で曇り始めた。
 そんな患者を見ながら、「今、禁断症状のピークなんです・・・」と笑いながら、「あんまり刺激すると舌を噛み切りますので、さ、次行きましょ・・・」と、サッと体を横に向けたのだった。

 そのままスタスタと隣の五号室へと進むと、僕は五号室を覗き込んだ瞬間、おもわず「うわっ!」と声を張り上げてしまった。
 なんと、隣の五号室の患者が鉄扉のアクリル板に、鼻がグニャッと潰れるほどに顔を押し付けていた。

 しかも全裸で・・・・

「はははは。こいつは重度の分裂病でね。いつも幻覚ばかり見ては夢の中にいるんですよ」
 前園さんは、絶句している僕とアクリルに歪んだ顔を押し付けている患者とを交互に見つめながらケラケラと笑った。
 そしてズボンの腰にジャラジャラとぶら下がっている鍵を指で選びながら、鉄扉のドアノブを掴んだ。
 僕はとたんにブルブルっと寒気を感じ、ドアを開けようとしている前園さんに「やめましょうよ・・・」っと、おもわず一歩下がる。

「はははは。大丈夫ですよ。こいつはきっと今ナメクジになってますから・・・」

 前園さんがガチャン!と鍵音を響かせると、アクリル板にへばり付いていた患者は目玉だけをギロッと動かした。
「な、なんですかナメクジって・・・・」
 僕は、扉を開けようとする前園さんの背中に隠れながら聞いた。
「こいつね、この間、洗面所にナメクジがいるのを見つけたんですよ。で、しばらくそのナメクジを静かに観察してたんですけど、そのうち自分もナメクジになっちゃいましてね・・・」
 前園さんはケラケラと笑いながら、患者がベタリと張り付いている鉄扉を重そうに引き開けた。
 患者は、開いた扉にベタリと体を張付けたままジッと身動きしない。
 三十代と思われる患者の尻は、贅肉がダラリと垂れ下がっていた。
 そんな患者の尻を前園さんがピシャリと叩いて「はい、ベッドに行きなさい」と命令すると、ナメクジ患者は目玉だけをギョロギョロと動かしながら、その張り付いていたアクリル板からミシミシと身体を離したのだった。

 ナメクジ患者は、僕達に見つめられながら、ダラダラと歩いてはそのままベッドの上にドスンと腰を下ろした。
 まるで原始人のように伸びきった髪の毛は、毛糸のようにゴワゴワとしている。
 ブヨブヨの脂肪に包まれたその醜い体は、豚小屋の豚を連想させた。
 そんなナメクジ患者は、ゆっくりとベッドに仰向けになると、なぜか両膝を立ててはゆっくりと股を開いた。僕が立っていた位置から、ナメクジ患者の開いた股間の中が薄らと見える。
 そんなナメクジ患者に、前園さんが「こら、行儀が悪いでしょ」と言いながら、ナメクジ患者のブヨブヨの太ももをピシャンと叩いた。するとナメクジ患者は、一瞬、前園さんの目をジロッと見つめると、それを何かの合図と思ったのか、そのままのそりと体を回転させ、なんと今度は四つん這いの体勢になっては僕に尻を突き出したのだ。
「なにやってんだよこいつは・・・・」
 前園さんはそんなナメクジ患者を見てはケラケラと笑う。
 しかし、そんな前園さんの笑顔は、口は笑っていても目は笑っていなかった。

 僕は、そんな引き攣った笑顔の前園さんと、そしてベッドの上でワンワンスタイルで尻を振っているナメクジ患者を見つめながら、(この人は絶対に患者とヤっている・・・)っと確信したのだった。


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 六号室の患者も、僕達がやって来るのを待っているかのようにアクリル板に顔を押し付けて廊下をジッと見つめていた。
 しかし、アクリル板にへばり付くその患者の顔には、五号室のナメクジ患者とは違い少なからず人間的な表情があった。

「こいつは薬物依存症です。典型的なシャブ中ですね。症状は大した事ないんですが、本棟で同室患者の髪の毛を燃やしましてね・・・それでここに隔離されてます・・・」

 前園さんはそう言いながら六号室のドアの鍵を開け始めた。
 前園さんがドアに鍵を入れるのを見るなり、患者はうれしそうに笑った。そしてソワソワしながら手グシで髪を解き始めると、僕にも「うふふふふふ」っと唇を窄めながら愛想笑いを向けた。

 年齢は三十代前半。髪は茶髪で、目が大きく、どことなく若い頃のハイヒールのモモコに似た可愛らしくも下品な女だった。
 前園さんが扉を開けると、患者は、待ってました!と言った感じで、そのままドアの隙間をすり抜けては急いで廊下に出て来た。
 僕は、そんな患者に一瞬「えっ?」と思ったが、しかし前園さんはそんな患者を止める事なく「調子はどうだ?」などと笑顔を見せている。
「調子いいわけないじゃん・・・毎晩毎晩、お隣さんからあんな声聞かされてんだもん、欲求不満が溜るばっかだよ」
 患者が意味ありげにそう笑うと、前園さんは慌てて話題を変えた。

「こちら、松川さんと交代で夜勤に入る事になった市原さんだ。面倒かけないようにするんだぞ」

 前園さんがそう言うと、モモコ患者は「あ、どうも」と僕に簡単に会釈し、またすぐに前園さんに顔を向けた。
 そんなモモコ患者は、まるでオシッコを我慢しているかのように、立っている膝をカクカクしながら「早くぅ」と前園さんの作業服の腕を叩いた。すると前園さんは「待て待て・・・」っと笑いながら、作業服のポケットからタバコを取り出したのだった。

 前園さんが突き出したタバコを奪い取るかのように1本抜き取ったモモコ患者は、それを唇の端に銜えながら「そういえば、松川ちゃんはどうなった?」と、前園さんを見た。
「あぁ、やっぱり隣にいるよ・・・」
 前園さんはそう言いながら、膝をカクカクさせながら催促しているモモコ患者のタバコにライターの火を向けた。
「松川さんって、僕の前にここにいた人ですか?」
 モモコ患者のタバコに火を付ける前園さんに僕がそう聞くと、前園さんは「ええ・・・」と、なにやら言いにくそうに頷いた。
「隣って事は、A棟へ移動なされたんですか?」
 僕は、このコンクリート壁の向こう側にある、男性患者を収容している特別第三A棟の方を見つめながら聞いた。
「・・・この人、何も知らないの?」
 モモコ患者がタバコの煙を旨そうに吐き出しながら、前園さんの顔を見た。
「・・・あぁ、今日来たばかりだしな・・・・」
 前園さんはモジモジしながらポケットの中にライターをしまう。
「なにがあったんですか?」
 気になった僕はソッと前園さんの顔を覗き込んだ。
「いや、まぁ・・・後でゆっくりとお話ししますよ・・・」
 前園さんが言いにくそうにそう返事をすると、タバコを吹かすモモコ患者は「ふふふふふっ」と意味ありげに僕を見つめて笑った。
 もちろん、そんな前任の松川さんの事も気になるが、しかし僕は、さっきから院内着の胸元にチラチラと見えるモモコ患者の強烈に大きな胸の谷間が気になってしょうがなかったのだった。


「時々、こうやってタバコを吸わせてやったりチョコレートを与えたりして患者を手なづけておくのも、事故防止のひとつなんです・・・」
 そう言いながら六号室のドアの鍵を閉める前園さんは、居室の中からバイバイと手を振っているモモコ患者にニヤッと笑って見せた。
 そして隣の七号室に向かいながら僕にゆっくりと振り向く。

「但し、患者の状態を選ばないといけませんよ。あの六号の患者も、今は状態が平常ですからいいですけど狂ってる時は危険ですからね。あいつはああ見えても、脱走未遂を4回もやらかしている常習犯ですから・・・」

 前園さんはそう言いながら七号室の前をスタスタと通り過ぎた。
 七号室のドアには、患者が収容されているのを伝える番号プレートが掲げられておらず、そこが空室である事がすぐにわかった。そんな無人の七号室ではあったが、しかしその薄ら淋しい七号室からは、何やら唯ならぬ陰のパワーが満ち溢れているのを僕は感じ取った。
 前園さんはそのまま知らん顔して七号室を通り過ぎると、そのまま八号室も通り過ぎては、通路の突き当たりを左に曲がった。
「えっ?」と僕は八号室の前で足を止めた。八号室には、四十代と思われる患者がベッドで静かに正座をしたまま、僕がいる廊下をソッと見つめているのだ。

「前園さん、八号室は?」

 通路をスタスタと進む前園さんに僕がそう声を掛けると、前園さんは、「あぁ、そこはただの分裂病です。症状も平常ですから特に危険はありませんよ・・・」と言いながら、そのままスタスタと通路を進んで行く。
 そそくさと八号室から遠離って行く前園さんの背中を見つめていた僕は、なにか怪しいぞ・・・と唐突にそう思った。そう、この八号室は、つい先程、前園さんが作業ズボンをベタベタに濡らしながら出て来た部屋なのである。

 僕は、A棟との境目の鉄扉の前で立ち止まってはこっちを訝しげに見ている前園さんを無視したまま、八号室の中をソッと覗いた。
 ふいにベッドで正座している患者と目が合った。
 その患者は、どこにでもいそうな主婦といった感じの大人しそうな中年女性だった。僕をジッと見つめる患者のその目は、まるでヘビかトカゲのような爬虫類的な冷たさに包まれていた。
 僕から静かに目を反らした患者は、ゆっくりと項垂れては正座する自分の膝をジッと見つめながら何やらブツブツと呟き始めた。僕は鉄扉の横にある食器を入れる小窓のアクリル板をソッと開けると、患者が何を呟いているのか耳を傾けた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・・・」

 患者はまるで死人のような表情をしながらもブツブツとその言葉を繰り返していた。
 とたんに僕は背筋がゾッとした。
 暴れる精神病者も怖いが、しかしこんなサイコ系も異様に不気味で、背筋が寒くなるほど怖い。

「こいつはね殺人犯なんですよ・・・」

 小窓から八号室を覗いていた僕の耳元で、いつの間に来たのか、いきなり前園さんがそう呟いた。
「さ、殺人犯・・・ですか?・・・・」
 更に背筋が凍った僕はブルブルっと身震いしながら静かに小窓を閉めた。

「・・・ええ。亭主の同僚と浮気している現場を亭主に見つかっちゃいましてね。それを亭主に責められて、亭主から出て行けと怒鳴られたその晩、寝ている亭主の首に包丁をブスッとね・・・・」

 僕は、そう淡々と説明する前園さんの目を見つめながら、乾いた喉にゴクリと唾を押し込んだ。
「精神鑑定で分裂病と診断されてから、かれこれ六年になりますかねこの特Bに入れられて・・・・その六年間、毎日毎日いつもああやってお経のように『ごめんなさい』を呟いてるんです・・・」
 前園さんはそう言いながら、八号室の扉のアクリルをトントンっと叩いた。
 ベッドに正座しながら「ごめんなさい」を呟いていた患者がフッと顔を上げ、前園さんの顔を見るなり、その「ごめんなさい」の声をいきなり大きく張り上げた。

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

 もはやそれは呟きではなく叫びだった。
 患者は、前園さんの顔を見つめながら「ごめんなさい!」を連発し、そして怯えるウサギのようにブルブルと体を震わせていたのだった。


「・・・・さ、行きましょう。次は隣のA棟を案内しますから・・・・」

 前園さんは、ポロポロと涙を流しながら「ごめんなさい!」と叫ぶ患者からスッと顔を背けると、そのままA棟へと続く廊下をスタスタと歩き始めた。

 そんな八号室の患者の叫び声に誘発されたのか、他の患者が「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」と叫び始めた。恐らくそれは四号室の凶暴な茶髪患者だろうと、ギシギシと揺れている四号室の鉄扉を見つめながら思った。
 僕は、「死ね」と「ごめんなさい」が響き渡る特Bの廊下にもう一度振り向きながら静かに下唇を噛んだ。そして、これはとんでもない病棟に配属されてしまったぞとつくづく思いながら、患者達の狂気の叫び声にどっぷりと包まれていたのだった。


               6


 そんな不気味な特Bと違って男性患者が収容されている特Aはまさに動物園だった。
 特Bと区切られている鉄扉のゲートを開けるなり、いきなりその奇怪な叫び声や怒号がまるでスピーカーの音量を最大にしたかのように僕に襲いかかって来た。

「・・・ここには特に危険なコブラが集められてますから油断してるとガブリと噛まれますよ・・・」

 そうニヤニヤと笑いながら居室をひとつひとつ覗いて歩く前園さんは、なぜか妙に嬉しそうだった。
 この特Aは、居室が両サイドにズラリと並び居室の数は特Bの倍だった。ここに収容されている患者のほとんどが、社会で何らかの犯罪を犯した者らしく、そこはまるで刑務所のような雰囲気に包まれていた。

「よお、よお、よお、前園、元気かよ」

 廊下を歩く僕達を見つけた患者がそう言いながら鉄扉の前にやって来た。
 ランニングシャツを着ているその患者の両腕には、極彩色のイレズミがびっしりと彫り込まれている。
「中村さん、調子はどうですか」
 前園さんはそんなイレズミ患者にそう笑いかけながらポケットの中からソッとチョコレートの入った銀紙を取り出すと、それを食器を入れる小窓の中にポイッと放り投げた。
 イレズミ患者は、その銀紙をベッドの下へと蹴飛ばして隠すと、アクリル板に無数に開いている小さな穴に口を近づけ、「今夜、大丈夫か?」と声を潜ませそう聞いた。
「わかりました・・・」
 前園さんが小声でそう答えると、イレズミ患者は両手で自分の股間を押えながら「頼んだぜ」とヘラヘラと笑いながらウインクをしたのだった。

「あいつはね、5年前、木更津のスナックで自分の組の親分と兄貴分を撃ち殺したシャブ中ですよ・・・・コブラの中でもあいつはとびっきり危険なキングコブラです。絶対に逆らわない方がいいですよ・・・」

 廊下を進む前園さんが僕に振り向きながらソッと呟いた。
 僕は前園さんと並ぶように足を速めながら、「彼が言っていた『今夜』ってのは・・・今夜何かあるんですか?」と尋ねてみた。すると前園さんは、そんな僕の質問が聞こえなかったかのようにサラリと無視し12号室と書かれた居室の前でスタっと足を止めた。

 その12号室には、三十代の中年男がベッドに座ったまま、口をポカンと開けて天井を見つめていた。
 中年男の坊主頭には何やら電線が絡み合ったヘッドギアが装着され、彼が重症患者である事をひしひしと物語っていた。
「あの、頭に付いてるヘッドギアはなんですか?」
 僕は、驚きながら前園さんに聞いた。
「脳に電気を送ってるんです。ああやって少しずつ脳に刺激を与えて溢れ出るドーパミンを遮断しているんです」
「・・・どうしてですか?」
「興奮して暴れるからですよ。昔はあんな物じゃなくてね、電パチっていう凄い強力な機械でバチバチバチって電気流してたんですけどね、アレだったら一発で効くんだけど今は禁止されちゃいましたからね・・・・」
 前園さんはそう呟くと、ふいに鉄扉のアクリルをトントンっと指で叩いた。
 しかし、天井を見つめたままの患者はそんな音に何も反応しなかった。

「あれが、一ヶ月前まで特Bで看護士してた松川です」

 前園さんはアクリル板を覗き込みながらサラリとそう言った。
「ええっ!」
 僕はそんなサラリと言った前園さんの一言にかなりの衝撃を受けた。
「あいつね、毎日毎日特Bでキチガイを扱っているうちに自分もキチガイになっちゃったんです・・・」
「でも・・・どうして特Aなんかに・・・・」
「事件を起こしたからですよ」
「事件?・・・と言いますと?」
「こいつ、特Bの患者とデキてたんです」
「・・・・・・・・・・」
「統合失調症の女だったんですけどね、まぁ、それなりにイイ女だったんですけど、とにかく妄想が酷い女でね・・・部屋に生首が浮いてるとか、廊下をゴリラが歩いていたとか、意味不明な事ばかり言っては暴れる患者だったんですよ・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「で、松川は、そんな患者と夜勤の時にはいつも一緒の部屋で過ごしてたんですけどね、ある日の深夜に、またその女が暴れ出したんです。自分の腹の中にネズミが入ったってね」
「・・・ネズミですか?・・・」
「そう。ネズミ(笑)。腹の中に入ったネズミがね、自分の内臓を齧っているって騒ぎ始めたんですよ・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「まぁ、そんな妄想や幻覚なんてのはこの病院では当たり前の事ですから、普通なら安定剤を投与して眠らせてしまえばいいんですけど、でも・・・・もうその頃には、この松川って男もイカれてたんでしょうね、頭が・・・・」
「・・・ど、どうしたんですかこの松川さん・・・・」
「うん。包丁でね、患者の腹をガバッと開いて、中からネズミを取り出そうとしたんですよ・・・・」

 突然、僕の背後から「1966年新潟生まれ牡羊座!天皇陛下万歳!」という叫び声が響いた。
 そしてその叫び声が廊下に響くなり、別の居室から「うるさい貧乏人!」という声が返って来た。
「それを発見したのは私なんですけどね、もう見れたもんじゃありませんでしたよ、残酷過ぎて・・・・」
「ど、どこで発見したんですか?」

「・・・七号室です・・・」

 僕の脳裏に、妙に陰のパワーが漂っていたあの空き部屋が、瞬間に浮かび上がった。
「しかもね、こいつ、死んでる女の内臓を口に銜えたままヤってたんですよ・・・死体と・・・・」
 前園さんは、松川を見つめる顔を歪めながら、その時の事を鮮明に思い出したかのように不快な表情を見せた。
「ですから・・・市原さんも、前の病院では色々とあったらしいですけど・・・・ここでは患者との接触は十分気を付けて下さいよ・・・ここにいる患者は普通の人間じゃありませんから・・・・」
 僕は、前の病院を解雇された理由を知られていた事に、恥ずかしくて何も言えなかった。

「・・・特に、八号室の患者・・・あいつはあんな大人しそうな顔してますけどね、あれは重度のニンフォマニアですから・・・」

 僕はすかさず、八号室で「ごめんなさい」を連発していた、あの大人しそうなおばさんを思い浮かべながら聞いた。
「ニンフォマニアってのはなんですか?・・・・」
「ニンフォマニアは色情症の事です。つまり、異常性欲の変態ってことですよ・・・・」
 変態・・・・
 僕には「ごめんなさい」のあの大人しそうなおばさんと変態と言う言葉がどうしても結びつかなかった。そう思っていた僕が「そんな人には見えないんですけどね・・・」っと口走ると、いきなり前園さんがグッと振り返った。

「それ。それがいけないんですよ、その油断が・・・・その油断からこの松川という男も人生を棒に振ってしまったんです・・・・」

 前園さんは恐ろしい形相で僕を睨みつけながらそう言うと、そのまま体をゆっくりと僕に向けながら静かに僕を睨んだ。

「いいですか。あの八号室の患者には絶対に近寄っては行けませんよ。あいつはとんでもない毒女です。自分の亭主を平気で殺す危険な女なんです・・・・八号室の患者は私が管理しますから、まだ馴れていない市原さんは絶対に近付かないように・・・いいですか?」

 前園さんはもの凄い圧力で僕の目を睨みながらそう言った。
 僕は別段、あのおばさんには興味もなく、そんな恐ろしい患者に近寄らなくていいならそれに越したことはない。
 だから僕は、そんな前園さんに素直にコクリと頷いたのだが、しかし、何か釈然としないモノが僕の気持ちの中でシコりになって残る。
 この人は僕に何か隠しているに違いない・・・
 僕はそう思いながら狂った叫び声が響き渡る病棟に振り返り、いや、この人だけでなくこの病棟全体が何かを隠しているんだ・・・と、何か確信めいたものを感じたのであった。

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