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水のない噴水7

2012/11/17 Sat 04:26

水のない噴水6



 裸足のまま道路に飛び出し、急ブレーキの音を響かせながら止まったタクシーに飛び乗った。
 タクシーに乗るなり一気に涙が溢れ出し、なかなか目的地を告げる事ができなかった。
 運転手は困惑した表情を浮かべていたが、しかし、深夜の業務ではこんな事がよくあるのか、妙に馴れた感じで涼子の興奮が治まるのを黙って待ってくれていたのだった。
 部屋に戻るなり浴室に飛び込んだ。
 急いで服を脱いだ。一刻も早く体内に息づく不浄な汁を洗い流したかった。
 脱いだワンピースをカゴの中に入れた。一瞬、何ともいえない異臭が鼻を掠めた。慌ててワンピースをカゴの中から取り出し匂いを嗅いでみると、そこには魚の腐ったようなニオイがむんむんと漂っていた。
 この悪臭に気付かないままタクシーに乗っていた自分が恥ずかしくて堪らなかった。
 きっと、衣類だけでなく髪や体にもこのホームレスの臭いは染み付いているはずだと思うと、もう二度とこの悪臭が取れなくなるのではないかという焦燥感に襲われた。
 裸のままキッチンへと走ると、流し台の隅に置いてあった食器洗浄機専用洗剤を手にした。それを持って浴室に飛び込むと、消毒臭の強いそれを頭から垂らし、スポンジで全身を擦りまくった。
 たちまち全身がヒリヒリして来たが、構わず涼子は続けた。こんな臭いが体に染み付いてしまったら、武田の撮影どころから、モデル業界から追放されてしまうと本気で思い込んでいたのだ。
 そう焦っていた涼子は、あろう事か洗剤の口を膣に押し込んでいた。そしてそのまま一気に膣の中に液体を噴射させた。
 まるで真っ赤に熱せられた炭を膣の中に入されたような強烈な痛みが走り、凉子は悲鳴を上げながらその場にひっくり返った。
 強烈な痛みで我に返った凉子は、七転八倒しながらも慌ててシャワーを膣にあてた。しかし、それでは膣奥にまで噴射された洗剤を洗い流す事はできなかった。慌ててシャワーヘッドをくるくると回しそれをスポッと抜き取ると、そのホース状になったシャワー口を膣の中に押し込んだ。
 蛇口の温度を冷水の『C』まで回すと脳天にまで刺激が走ったが、しかし、ジクジクと火照った膣は次第に麻痺し、じんわりと痛みが治まって来たのだった。

 しゃがんだ股間には、まるで猿の尻尾のようにシャワーのホースがぶら下がっていた。
 膣奥から溢れ出る冷水には、無宿者たちの白く不浄な液体が混じっていた。それは痰のような固形となり、まるでナメクジのようにヌルヌルしながら排水溝へと滑り込んで行った。
 浴室から出ると、涼子は裸のままベッドに潜り込んだ。
 暗闇の中で息を潜めていた。彼は本気で私を殺すつもりだったのだろうかと考えていると、今にも包丁を手にした彼が部屋に入ってきそうな気がして戦慄を覚えた。
 もう一度ベッドから飛び出した。急いで部屋中の電気とテレビを点けた。テレビのCS放送では韓国ドラマがやっていた。しかし、そのあまりにも暗いメロディーは更に気分を滅入らせた。
 舌打ちした涼子はリモコンを手にすると、カチカチとCSのチャンネルを変更した。バカみたいに明るいアニメがやっていた。真夜中のクレヨンしんちゃんは逆に不気味な感じがしたが、しんちゃんのそのくだらないギャグは、とたんに部屋の中をパッと明るくしてくれた。
 しかし、脳髄にこびり付いた恐怖は、クレヨンしんちゃんごときでは消え失せてくれなかった。いつ彼がドアチャイムを鳴らすかと思うと、悲鳴を上げたくなるくらいの恐怖に襲われ、自然に奥歯がガチガチと音を鳴らした。
 幸いにも、彼はこの部屋の合鍵を持っていなかった。しかもこのマンションのセキリュティは万全で、オートロックの玄関ドアを壊す事も窓から侵入する事も不可能だった。
 しかし、例え彼の肉体は侵入できぬとも、彼の執念は電波を通じて侵入する事ができた。
 涼子は震える手で携帯電話を見つめていた。彼からの着信は68件あり、メールは50通を超えていた。
 涼子は下唇を噛みながら最初のメールを開いてみた。

『殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ殺すぞ』

 それが延々と続いていた。とたんに背筋がゾッとした。
 その直後、クレヨンしんちゃんの『ケツだけせいじんぶりぶり〜』という声が聞こえて来た。そのメールとクレヨンしんちゃんのギャグは、以前、YouTubeで見た、死体がゴロゴロと転がる戦場でサッカーをして遊んでいる子供達の動画を見た時のような薄気味悪さを覚えた。

 50通あるメールは、全て『殺すぞ』だった。このメールを警察に見せ、事情を説明すれば、恐らく彼は逮捕されるだろう。
 しかし、それはできなかった。それができないが為に涼子は苦しんでいた。
 なぜなら、涼子は未だに彼の事を愛しているからだった。

 その日から三日間、部屋から一歩も出なかった。食事は全てデリバリーで済ませ、会社には熱が下がらないと嘘をついていた。
 彼からのメールと着信は一向に治まらなかった。ただ、二日目から突然メールの文が変わり、そこに『殺すぞ』という言葉は見当たらなくなった。
 彼はそのメールで、必死に会って欲しいと訴えていた。本気で殺すつもりなどあるわけがない、あれは全てプレイの演出なのだと切実に書き綴っていた。
 しかし、涼子は、今はまだ彼と会う勇気はなかった。例えあれがプレイのための演出だったとしても、彼の精神が狂っているのは紛れも無い事実なのだ。
 狂った彼はいつ豹変するかわからなかった。そう脅える涼子は、メールの返信もしないまま、今少しの間は彼と距離を置くべきだと自分に言い聞かせていたのだった。

 四日目の朝、彼から送信されて来る膨大なメールの中に、涼子が所属しているモデル事務所のPCからのメールが紛れ込んでいた。
『明日の午後、武田の事務所で打ち合わせを兼ねたカメリハをすると連絡が入った。どうだ? 行けそうか?』
 メールは専務からだった。涼子は直ぐに専務の携帯に電話を掛けた。
 専務は涼子の体を心配しながらも、「あいつらは強引だからね」、と、どうしても行って貰わなければ困るというニュアンスでそう言った。
「もちろん行かせてもらいます」と返事をした涼子だったが、しかし、その後の専務の言葉が何やら釈然と来なかった。
「あいつらね、キミに一人で来いと言うんだよ……付き人もいらない、スタイリストもこちらで用意してるから心配するな、ってね……どう思う?」
 涼子は黙っていた。武田が何かを企んでいるとしか思えなかったのだ。
 しかし、だからといって断るわけにも行かなかった。武田に撮影されるという事は、涼子にとって一世一代のチャンスなのだ。
「わかりました。明日の朝、一人で行ってきます」
 そう答えると、すかさず専務は「大丈夫か?」と声を低くした。
「大丈夫ですよ。子供じゃありませんから現場くらい一人で行けます」
 明るくそう答えた涼子だったが、胸の奥は不安で爆発しそうだった。
「もし、無理な要求とかされたらすぐに連絡してくれ。私がすっ飛んで行くから」
 専務は力強くそう言った。
 しかし、あの、まだ十代の武田の秘書にあれだけ言われて何も言い返せなかった専務が、例えすっ飛んで来てくれた所で何も解決しないだろうと思った。
 涼子は、力なく「ありがとうございます……」と答えると、そのまま電話を切ったのだった。

 翌朝、どこかに彼が潜んでいないかと充分に警戒しながらマンションを出た涼子は、急いでタクシーに乗り込んだ。
 武田の事務所に行くと、ソファーに寝転がりながら本を読んでいたハーフの秘書が、「アレレ? 本当に来たんだ?」と目を丸め、バカにしたようにケラケラと笑い始めた。
 ハーフの秘書は、よっこいしょ、と、面倒臭そうにソファーを起き上がると、読んでいた本をテーブルの上に置き、デスクに向かって歩き出した。
 彼女が読んでいた本は、『絞殺』というフランスの古い文学書だった。涼子も学生時代に何度か読んだ事がある本だったが、しかし、難しすぎていつも途中で意味がわからなくなり挫折してしまっていた。
 ハーフの秘書は、デスクの上のインターホンを取ると、「ボス、例のお姉ちゃんが来ましたよ」と気怠そうに言った。
 受話器の向こうで武田が指示を出していた。ハーフの秘書は受話器にうんうんと頷きながら煙草を吸い始めた。
 その隙にテーブルの上に置いてあった『絞殺』をソッと開いてみた。開いた瞬間、驚いた。それは翻訳本ではなくフランス語で綴られていたのだった。

 ハーフの秘書に連れられて、七階まで階段を上った。
 エレベーターは点検中で使えないとハーフの秘書はボヤいていたが、しかし、見るからにエレベーターは普通に動いていた。
 ロケット型のビルの階段は、異様な急勾配だった。まるで梯子を上っているかのようなキツい階段だった。
 煙草を吹かすハーフの秘書は、涼子の三段先を歩いていた。階段に慣れているのか疲れた様子は無く、淡々と進んでいた。
 そんなハーフの秘書のミニスカートの中は、三段遅れて歩く涼子からは丸見えだった。
 ハーフの秘書は、黒いガーターストッキングに黒いTバックを履いており、一段一段上がるごとに黒いガーターベルトがムチムチの太ももに食い込んでいた。丸くてぷりぷりしているその尻は、女の涼子でもおもわず見とれてしまうほどに素晴らしい形をしていた。

 涼子はそんな尻を眺めながら、「難しい本を読んでるんですね」と声を掛けてみた。
 ハーフの秘書は、カツコツとヒールの音を鳴らしながら、「あぁ、あの本ね」と頷いた。
「あれ、七才の少女が八十才の老人の首を絞めるシーンが最高なのよね……だからあのシーンしか読んでないの」
 そう呟きながら階段を上がるハーフの秘書は、さすがに疲れたのか五階で一息付き、階段の手摺の隙間から火の付いたままの煙草をスッと落とした。
「ジジイって社会のゴミだもんね……臭いし、ベースケだし、そのくせチンポ立たないし……役に立たないジジイなんてのは、ああやってみんな殺しちゃえばいいのよ。あんたもそう思うでしょ?」
 ハーフの秘書はツンっと高い鼻を上に向けながら、横目で涼子を見た。
「んん……」
 涼子はそれには答えず、代わりに小さく首を傾げながら含み笑いで答えた。
 するとハーフの秘書は、いきなりドクロのシルバーリングが光る人差し指を立て、指先で涼子の股間をツンっと突いた。
「お姉ちゃんってさぁ、よく見るとエロい体してるよね。最近、いつオマンコした?」
 そう首を傾げながら、ハーフの秘書は大きな目で涼子を見つめた。
 涼子は再び「ふふふ」と含み笑いを浮かべながら答えを誤魔化した。
 するとハーフの秘書は、肉付きの良い唇をキュッと窄めながら、再び階段を上がり始めた。
「いいなぁ〜……お姉ちゃんくらいの美人だったら、男なんてよりどりみどりなんだろうなぁ〜……私なんてジジイばっかよ。白髪だらけのチン毛に埋もれた立たないチンポばっか。もう臭いったらありゃしない……」
 そう呟くハーフの秘書の尻を見上げながら階段を上り始めると、ふと涼子の脳裏に、あの地下道のホームレスたちの姿が浮かんだ。もしここでそれを彼女に話したら、彼女はいったいどんな顔をするだろうと思った。
「まぁ、この業界、あんなジジイでも相手にしないとやっていけないってのはわかるんだけどね……それにしても臭いのよ。一ヶ月放置されたハムスターの死骸みたいな臭いなのよ。もう堪んないわよ……だから私、あの本のあのシーンばかり読んでるの。あれを読んでると気分がスカッとするのよね……」
 彼女の尻に顔を埋めて悶えている老人の姿がふと浮かんだ。それは、彼女にとったら堪らない事でも、老人にしてみたら逆に堪らない事なんだろうなと思った。

 実際、ハーフの秘書は武田のボムの一人だった。
 生き馬の目を抜くこの業界では、いかに上質なボムを持つかで勝負が決まった。この業界は、カメラの腕前ではなくボムの質で決まるのだ。
 そんな腐った業界で、武田のボムはひときわ輝いていた。世界各国の美女を二十人から抱えていた。
 武田はそんなボムたちを、スポンサーとの契約交渉に巧みに使った。スポンサーの爺様共は最高級のボムたちに骨抜きにされ、武田の条件をストレートに飲むしかなくなるのだった。
 そうやって武田はこの業界のトップに君臨した。そんな彼の事を、陰で『オマンコ汁でのし上がった男』と呼ぶ者も多くいたが、しかし武田は、そんな呼ばれ方が気に入っていた。だから二〇〇六年に出版した武田の自叙伝のタイトルは『女汁で天下を取った男』だった。
 そんなボムたちの中で、このハーフの秘書だけは特別扱いされていた。大手スポンサーを落とす時には必ず彼女が使われた。
 彼女は百発百中だった。彼女と一夜を共にした者は、どんな大企業の社長でも必ずヘロヘロにされた。
 そんな彼女は、武田率いる大勢のボム軍団の中でも、特に攻撃力のあるアトミックボムなのであった。

 ハーフの秘書の丸い尻を眺めながら階段を上っていると、いつの間にか七階に到着していた。
『7』と書かれた防火扉の前で足を止めたハーフの秘書は、クスクス笑いながら振り返った。
「エレベーター。本当は故障なんてしてないんだよ。今、ボスの貸切りだから乗れないだけなの」
「貸切り?」
 涼子は最後の一段を上りきりながら首を傾げた。
「うん。ボスがね、エレベーターでレイプしてるのよ。相手は大手出版会社の編集長。ちょっと年食ってる女だけど、ウチのボス、知的な女に弱いから……」
 彼女はどこか寂しそうにニヤリと笑いながら、拳の瘡蓋を指で撫でた。
「ボスはね、エレベーターとかトイレで無理矢理犯すのが好きなの。でもね、それは知的な女じゃないとダメなの。私みたいな露出狂の変態馬鹿女だと、全然燃えないんだって……」
 彼女は唇を尖らせた。そう呟くその顔には、いつもの過激で挑戦的な表情は消え失せ、恋に悩む一人の少女の表情が浮かんでいた。
「だから……お姉ちゃんも知的な美人だから選ばれたんだよ。モデル名鑑でね、お姉ちゃんを見つけた時、ボス言ってた。こういう知的で上品で鼻の高い女はほぼ100%デュブデュブだ、って……あ、デュブデュブってのは、セックスが激しいって意味。どうしてデュブデュブっていうのかわかんない。あの人、勝手に言葉作る癖があるから」
 ハーフの秘書は、大きな目を餃子のように曲げながらクスッと笑うと、『7』と書かれた防火扉のノブを回した。
 ギャンっと鉄の防火扉が開いた瞬間、涼子は「ねぇ」と彼女を呼び止めた。
「ん?」と振り向いた彼女に「ひとつ聞いていい?」と顔を覗き込んだ。
「なに?」
「あなた、歳はいくつ……なの?」
 ハーフの秘書は一瞬ニヤッと微笑み、それを答えないままビルの廊下を歩き始めた。
 二人のヒールがカツコツと鳴り響く真っ白な廊下の突き当たりには、『スタジオC2』と書かれたドアがあった。
 ドアの前で足を止めたハーフの秘書は、クロムハーツのキーケースの中から鍵を取り出すと、それを鍵穴にグググっと差し込みながら「私の年齢は企業秘密なの」と微笑み、乱暴にドアを開けた。
 ドアの向こうから、甘酸っぱい香りがモワッと漂って来た。それは、明らかにマリファナだとわかる独特な香りだった。
 ハーフの秘書の肩越しに、赤一色に塗り潰された部屋が見えた。その真ん中には、白いベッドがひとつだけポツンと置かれている。
「どうぞ」とハーフの秘書が微笑みながら道を開けた。
 ドアが開け放たれた真っ赤な部屋がぽっかりと口を開いていた。
 それはまるで、ローリングストーンズのロゴマークのように危険な雰囲気を漂わせていたのだった。

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 天井と壁と床が真っ赤な部屋にハロゲンライトが灯されると、部屋の中は、赤いエナメルのハイヒールのようにテラテラと輝いた。
 真っ白なベッドが真ん中に置かれ、窓際には、黒地に濃紺のヒョウ柄ソファーが二つ並んでいた。
 そのソファーはジャンニ・ヴェルサーチが一九七八年にミラノに一号店をオープンした時、展示されていたソファーと同じデザインだった。
 ジャンニが一九九七年に殺害されるまで自宅で愛用していたというそのソファーは、二〇〇二年にローマで開かれたオークションで、香港の大富豪が二千万円で落札したという記事を、涼子はアメックスのプラチナ会員専用雑誌で読んだ記憶があった。
 レプリカでも相当な値段はするだろうなと思いながら、黒光りするソファーの毛を優しく撫でていると、エスプレッソを持ってやって来たハーフの秘書が「それ本物よ」とさりげなく言った。
 正面の壁には鏡が張ってあった。それは天井から床まである巨大な鏡で、二千万円のソファーに座りながらエスプレッソを飲む自分の姿が映っていた。
 洗練されたきらびやかな世界。例えそれが醜い方法で作られた虚像の世界だったとしても、彼に連れて行かれる路地裏や廃墟よりはずっとましだと思った。
 こんな世界で生きてみたい。そう思ったとたん、バックの奥でずっと鳴り響いている忌々しいバイブ音に耳を塞ぎたくなった。
 それが彼からの電話だとわかっていた涼子は、武田が来る前に携帯の電源を切っておこうとそれを取り出すと、ディスプレイに『専務』という文字が浮かんでいるのを発見した。
 武田の事務所にいる事を知っておきながらも、ここまで執拗に電話を掛け続けている専務に涼子は嫌な予感を感じた。
 白いベッドに腰掛けながら奇抜なマニキュアを塗り始めたハーフの秘書を横目に、涼子は早足にスタジオを出た。廊下に誰もいない事を確かめると、エレベーターの前でソッと携帯に出た。
「もしもし」
 いきなり緊迫した声が飛び出して来た。いつもと違う専務の様子に、涼子は一瞬背筋が凍った。
「どうしたんですか?」
「どうもこうもないよ。今、キミの彼だと名乗る男が事務所にやって来て、大変だったんだ!」
 涼子は、嫌な予感が的中した事に、改めて自分の不幸さを感じた。
「キミを出せって大暴れさ。いくらキミがここにはいないと説明しても、マンションからタクシーに乗るを見たんだと言って聞かないんだよ」
「それで彼は」
「さっき、やっと出てってくれたよ。包丁を振り回した挙げ句に、催涙ガスを撒いて行きやがったよ……なんだあいつは、狂ってるのか?」
 専務はゴホゴホと咳き込みながら言った。専務の背後でも大勢の人達がゴホゴホと咳き込んでいるのがわかった。
「ごめんなさい……昨日、彼とケンカしちゃって……」
 涼子は必死に誤魔化したが、しかし、専務は「ケンカってレベルじゃないだろアレは!」と、嘔吐しそうなくらいに咳き込みながら叫んだ。
「変なクスリでもやってるのか? キミを出さないのなら切腹してやるって叫びながら、鴨田君のデスクの上で腹を切ったんだぞあいつ。まぁ、腹を切ったと言っても、上っ面の皮を数センチ傷つけただけだったがね。それでもあんまり痛いもんだからびっくりしたんだろう、慌てて鴨田君のデスクから降りると体裁悪そうに帰っていったよ」
 専務は鼻でそう笑いながら、呆れた溜息を付いた。
「それにしてもあいつは危険だ。危険過ぎる。ウチもゴタゴタは困るから警察には言わないが、それにしても、あんな奴を野放しにしておいたらキミが破滅させられてしまうぞ」
 動揺する頭は、そんな専務の言葉を聞きながらも、いつしか、自然を愛していた頃の彼の姿を甦らせていた。頭に浮かぶあの頃の彼の優しい笑顔は、まるで別人のようだった。そう思うと、自然に涼子の目から涙が溢れていた。
「あいつは、これから武田の事務所に行くと騒いでいたよ。あんなキチガイがそっちに行って暴れたりしたら、もうウチの事務所はおしまいだよ。だからキミが責任を持ってなんとかしろ。すぐにあいつに電話して話をつけるんだ。いいね、わかったね」
 プツっと電話が切られた。その瞬間、ウッと嗚咽が漏れた。
 どうして彼はわかってくれないのか。
 どうして彼は私の邪魔をするのか。
 どうして彼は私を殺そうとするのか。
 そんな怒りと恐怖が胸の中で膨れ上がり嗚咽となって漏れた。
 しかし、それを腹から吐き出すと、今度はなんともいえない寂しさと悲しさに包まれた。
 今頃彼はどんな気持ちで走っているのだろう。そう思うと涙が止めどなく溢れた。
 腹の傷は大丈夫なのだろうか。そう思うと、居ても立ってもいられなくなり、彼の携帯に電話を掛けていた。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所におられるか電源が入っていない為かかりません』
 無情なアナウンスが繰り返した。
 彼は本当にここに来るつもりなのだろうか、と慌てて窓際へ走り、ビルの下を見た。街路樹が並ぶ歩道には大勢の人々が歩いていた。その中を、トチ狂った彼が出刃包丁を振り回しながら走って来る幻想が浮かび、涼子は「いやっ……」と呟きながら下唇を噛んだ。
 すると突然、背後で「チン」という音が鳴った。
 ゴゴゴッとエレベーターの扉が開くと、気怠そうな武田がポツンッと立っていた。
「あれ?」と、涼子を見て首を傾げた武田は、金髪に染めていた長髪を丸坊主に刈っていた。金髪の坊主頭はまるでヒヨコのようだ。
「なんで泣いてんの?」
 厳ついブーツをガツゴツと鳴らしながら出て来た武田の手には丸めたティッシュが握られていた。エレベーターから漏れて来るムッとした空気には、どことなく生々しい熱気が感じられた。
「いえ、なんでもありません」
 慌てて首を振る涼子に、武田は気怠い笑顔でニヤッと微笑みかけた。
「プロならプロらしく、こんな所でメソメソしてないでスタジオで堂々とメソメソしようぜ。なんなら俺もメソメソに付き合ってあげるぜ」
 武田は涼子の細い手首をソッと握ると、そう言いながら歩き出した。そんな武田の手は妙に熱く、じっとりと汗ばんでいた。

 彼の事を早く話さなければと思いながら武田とスタジオに入った。
 ベッドで爪をフーフーしていたハーフの秘書が、大きな目で武田をジロッと睨んだ。
「あの女、イカ臭さそうですから、とっととシャワー浴びて下さい」
 秘書はそう呟きながら、再び爪をフーフーし始めた。
「うん。アレはイカじゃなくてチーズだった」
 武田はそう呟きながら指をクンクンと嗅ぐと、そのままベッドの前で立ち止まった。
「さすがに朝からエレベーターファックは疲れたよ。立ちっぱなしの腰振りっぱなしで一階から十階まで四往復だもん、もう身も心もクタクタだ。取りあえずシャワーを浴びる前に脳味噌をピキーンっとさせてくれ」
 武田はそう言いながらリオのキリスト像のように両手を広げると、そのままベッドにバタンっと倒れたのだった。

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 秘書は「ふんっ」と横目で武田を睨みながらベッドを立ち上がると、そのまま巨大鏡の裏にあるバックヤードへと消えて行った。
 遠離って行く秘書のヒールの音を聞きながら、涼子は、大の字になってベッドに沈んでいる武田に、一刻も早く彼の事を話さなければと焦っていた。
 しかし言い出せなかった。嫉妬に狂った彼が包丁を持ってここに乗り込んで来るかも知れないなど、恥ずかしくて言えるわけがなかった。
 それでも、黙ったままでは大変な事になってしまうと焦った涼子は、ベッドの端でモゾモゾと立ちすくみながら思い切って言った。
「あのぅ、お話があるんですが……」
 すると、武田はベッドに顔を埋めたまま「わかってるよ」と呟いた。
「ヤクザだよ。横浜のヤクザにやられたんだよ」
 そう言いながら武田はゴロリと仰向けになり、忌々しそうに坊主頭をガリガリと掻いた。
「反社会的集団なんて呼ばれてる割りにはセコい野郎共でさ、一ヶ月返済が遅れただけでコレだよ。しかもたったの六千万だぜ。世界の武田のトレードマークの金髪を、たったの六千万ぽっちでガリガリと刈っちまいやがったんだから驚きだよね。しかもバリカンで……でもって来月払えなかったら小指を詰めるんだってさ。なんだいあいつらは。今時、五反田のSM嬢でもそんな臭いセリフは吐かないぜ。あいつらはさ、いつも朝の9時頃にやってる、妙に古臭い特捜最前線の再放送の見すぎなんだよ。あんなものばかり見てるから時代錯誤しちゃってさ、そんな幼稚なセリフしか頭に浮かんで来ないんだよきっと。もっと関東連合見習えっつーの」
 言うだけ言うと、武田は再びゴロリとうつ伏せになった。そしてベッドに顔を埋めながら「だからもうこれ以上は髪の事は聞かないで」と呟き、まるで子供が泣きじゃくるようにして、足を交互にバタバタさせた。
 そこにハーフの秘書が無言で戻って来た。彼女の右手には、針の先にプクッと水玉を作った注射器が握られていた。
 彼女は慣れた手つきで武田の黒い皮パンを捲り上げると、脹ら脛辺りに針をプツっと刺した。
 注射器の中の液体が武田の体内にみるみる吸い込まれて行った。
 針を抜くと、武田はしばらくの間、放心状態になっていた。
 しかし、一分も経たないうちにムクリと起き上がり、突然ベッドの上でヨガを始めた。
 武田は、猫のポーズなどをあれこれしながらも、『北野君』や『青葉台小学校』などと意味不明な言葉を呟いていた。そして突然、『イクミ! いい加減になさい!』と天井に向かって叫んだかと思えば、『あららららら、そりゃないよ青空ぁ〜』などと言いながらベッドにへたり込んだりと、実に奇妙な演技をし始めた。
 そんな武田を涼子が呆然と見ていると、窓際で表参道を眺めながら煙草を吹かしていたハーフの秘書が、「熱中時代のモノマネです」とポツリと呟いたのだった。

 二十分近く続けられたモノマネは、『熱中時代』だけでなく『池中玄太八十キロ』や『ケンちゃんシリーズ』まで及んだ。マニアックな所では『寺内貫太郎一家』や『2年B組仙八先生』などというものまであった。
 そのモノマネが変わる度に、ハーフの秘書がいちいちドラマのタイトルを教えてくれた。しかし、そんなドラマを見た事がなかった涼子は、それが似ているのかどうかわからなかった。
 そんなモノマネは、いきなり武田が、『父ちゃん情けなくて涙が出てくらぁな!』と叫びながらベッドから転げ落ち、そして慌てて壁まで走り寄り、その壁で逆立ちしながら『はっちゃけ、はっちゃけ』と唸り出したのを最後に、やっと治まった。
 ハーフの秘書曰く、それは『男・あばれはっちゃく』というドラマの、父と子が争っているワンシーンらしく、ちっとも似ていないという事だった。

 覚醒剤を打った男というのを初めて目の当りにした涼子は、まるで、動物園の檻の中で興奮している気が狂ったマントヒヒを見ているような気分だった。
 改めて覚醒剤の恐ろしさと凄さを愕然と思い知らされた涼子だったが、しかし、今はこんなバカなショータイムをのんびり見ている暇はないと慌てて現実に戻った。
 今の武田に何を言っても無駄だと思った涼子は、ハーフの秘書にそれを説明しようと思った。
 彼女は鏡の裏のバックヤードの中にいた。白い扉をノックすると、中から「なぁに……」という甘ったるい声が聞こえて来た。
「ちょっと話したい事があるの……開けてもいい?」
「……いいよぅ……」
 彼女のうわずった声に、何やら不吉な予感を感じながらも恐る恐る扉を開けると、隙間から、キッチンの流し台の上にペタリと座っている彼女が見えた。
 なんと彼女は黒いTバックを膝まで下げ、股間に指をモゾモゾとさせながら陰部を弄っていた。
 驚いた涼子はおもわず「あっ」と小さく叫び、「ごめんなさい」と言いながら慌てて扉を閉めた。
「……いいよぉ……オナニーしてんじゃないから気にしないで……」
 そんな彼女の言葉に、再び恐る恐る扉を開けると、妙に目をキラキラと輝かせた彼女がニヤニヤしながら涼子を見つめていた。
 彼女はムチムチの尻に黒いTバックをスルスルと上げながら、そのまま流し台の上からピョンっと飛び降りた。
「シャブが残ってたからアソコに塗り込んでたの。ボスのシャブはすんごく高いシャブなんだから残すともったいないでしょ」
 彼女は、大きな目を再び餃子のように曲げながら「うふふふっ」と笑った。そんな彼女の笑顔にゾッとしながらも、涼子は小悪魔的なエロスを感じていた。
「で、話しって何? もしかして、飛んでるボスを見てビビっちゃったとか?」
 そう首を傾げる彼女に、涼子は恥を忍んで彼の事を話した。
 嫉妬に狂った彼がココにやって来るかも知れないと話すと、彼女は「ヒュゥ〜」と口笛を吹き、「お姉ちゃんの彼氏、なかなかヤルじゃない」と冷やかした。
「違うの。そんなんじゃないの。彼、ちょっと精神的におかしくなっちゃってるから、何をするかわからないの。それに、包丁なんかを持ってるらしいし……」
 凉子は、恥を忍んで洗いざらい話した。そして事故が起きないうちに、一刻も早くビルの入り口のドアに鍵をかけて欲しいと頼んだ。
 すると、再び「ヒュゥ〜」という口笛が聞こえた。しかし、それは彼女の口笛ではなかった。
 涼子が慌てて後を振り向くと、金髪の坊主頭からダラダラと汗を垂らした武田が、口笛を吹いた状態のままの唇で立っていた。
「最高じゃんキミの彼。それいい。それ、凄くはっちゃけてるよ。とってもはっちゃけちゃってるよ。脳味噌ビンビン来るくらいはっちゃけまくりだよ」
 武田は目をギラギラと輝かせながらそう言うと、いきなり給湯器の横にあったインターホンを鷲掴みし、受話器に向かって叫んだ。
「おい! 今からそこに包丁を持ったマイトガイが乗り込んで来るから速やかに確保せよ!」
 すると、受話器からはロビーの受付嬢らしき女の叫び声が聞こえてきた。
「おっ? おほほっ?」
 武田は、受話器を耳にあてたまま、バナナを手にしたチンパンジーのように飛び跳ねた。
「もう来てるってさ! すげぇよ、警察24時みたいな声が聞こえて来るよ! うひょひょひょ! やれやれ!」
 更に高く飛び跳ね始めた武田から、秘書が受話器を奪い取った。
「その人、知り合いだから警察は呼ばなくていいわよ。怪我させないように捕まえて七階まで連れて来てちょうだい」
 彼女はそう言うと受話器をカチャッと元に戻した。
 涼子は針のムシロに座らされたように身を縮めながら、秘書に「ありがとう」と小さく呟いた。
 秘書は、そんな涼子に意味ありげな笑みを浮かべながら、「ありがとうっていうか……後で私を恨まないでね」と肩を窄めた。
「特別ゲストのおでましだぁぁぁぁぁぁ! うひょひょひょひょょょょょょょょ!」
 そう絶叫しながら飛び跳ねた武田が、キッチンの上の棚に激しく頭を打つけ、そのまま床にひっくり返った。
 それを見た秘書がケラケラと笑い出した。
 そんな彼らを、顔を引き攣らせながら見つめていた涼子は、更に不吉な出来事が起こりそうな予感を感じ、背筋をブルっと震わせたのだった。

(つづく)

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