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水のない噴水15

2012/11/17 Sat 04:26

水のない噴水15



「この判決に不服がある時は、十四日以内に東京高等裁判所へ上告を申し立てて下さい。それでは、判決の言い渡しを終わります」

 裁判官のその言葉と共に廷吏が「起立」と号令をかけた。
 判決に満足げな検事は勝ち誇った表情で背筋をピンっと伸ばし、一方の負けた弁護士は、椅子から少しだけ尻を持ち上げた中腰状態で渋い顔をしていた。
 裁判官が法廷を出て行くと、一気に傍聴席が騒がしくなった。
 しかし傍聴人達は、死刑判決が出た事に騒いでいるのではなかった。傍聴人達は、たった今この東京を襲った地震について騒いでいるのだ。
 屈強な拘置所の刑務官に挟まれていた大森の耳に、「今の地震凄かったよな、マジ潰れるかと思ったよ」という若い男の笑い声が、背後の傍聴席から飛び込んできた。
 どうせいつもの傍聴マニア達だろうと大森は思った。この下衆野郎共は、毎回法廷にやって来ては、まるでテレビドラマでも見ているかのように人の不幸を楽しんでいるのだ。
 そんな傍聴席の左側にある記者席でも、死刑判決とは関係ない言葉が飛び交っていた。
「首都高は閉鎖、一般道も大渋滞、電車もバスも全線ストップだ。東京はスクープの宝箱だぜ、速攻で新宿駅飛んで帰宅難民狙うぞ!」
 そう言いながら二人の記者が法廷を飛び出して行った。
 法廷の入り口では血相を抱えた記者が「すぐに品川埠頭にカメラ回せ! 津波が全てを飲み込んでしまう瞬間を生放送するんだ!」と携帯電話に怒鳴っていた。
 巨体の刑務官に、青い腰縄をズボンのベルト通しに巻かれていた大森は、津波が全てを飲み込んだらカメラも飲み込まれるじゃねぇかバカ、と思いながら、もう一人の拘置所の職員に向かって並べた両手首をそっと差し出した。
 腰縄と繋がっている手錠が大森の両手にキリリリリッと嵌められた。その不条理な冷たい感触を手首に感じた瞬間、地震で盛り上がっている傍聴席に対して激しい怒りがムラムラと込み上げてきた。
(無実の罪で死刑判決を受けた者がここにいるって言うのに……おまえらは地震の方が……)
 そう奥歯を噛み締めながら、恨めしそうに傍聴席を睨むと、ドヤドヤと法廷を出て行く人の群れの中に、ジッと身動きしないまま祈るようにして大森を見つめている者達を発見した。
 それは、年老いた妻と身体に障害を持つ息子だった。
 まさか二人が法廷に来ているとは思ってもいなかった大森は、一瞬にして凍りついた。
 大森の引き攣った顔を見るなり、今年三十才になる息子が「父ちゃん!」と叫んだ。息子は変形した手で懸命にもがきながら、大森に近づこうと車椅子の上で暴れていた。そんな息子を、年老いた妻は必死に背後から抱きしめながら、「ひぃぃぃぃぃ」っと泣きじゃくっている。
「おまえ、何しにきたんだ! そんな体で車椅子を押してきたら危ないじゃないか!」
 大森がおもわずそう叫ぶと、年老いた妻は「介護の人が誰も来てくれなくなったんです!」と、更に大きな声で泣き出した。
 狼狽えた大森が更に言い返そうとすると、若い刑務官が「喋っちゃいかん」と、大森と傍聴席の間に立ち塞がった。
 無情にもそのまま大森は被告人通用口へと引っ張られた。大森の背後では息子が意味不明な言葉を叫び、年老いた妻の泣き叫ぶ声が響いている。
 堪らなくなった大森は、この法廷内で唯一自分の味方である弁護士に「センセ!」と叫んだ。
 大きなため息を何度もつきながら大量の調書をカバンに詰め込んでいた弁護士が大森をジロっと見た。
「電車もバスも止まってるって言うじゃないですか! あの腰で車椅子を押して練馬まで帰るのは無理です! お願いします! なんとか妻を助けて下さい!」
 そう早口で伝えると、弁護士は調書を両手に抱えたままちらっと傍聴席に目をやり、泣き崩れる老婆と車椅子の息子をゾッとした目で見た。
 「はぁぁぁぁ」っと、法廷に響くほどの大きなため息を漏らした弁護士は、後頭部をカリカリカリっと掻きながら再び調書をカバンの中に押し込み始めた。そして被告人専用通用口へと引きずられる大森の姿を見もしないまま、「そこまでは私も面倒見切れませんよ」と、独り言のように呟いたのだった。

 被告人専用の廊下に追い出されると、妻の泣き叫ぶ声は幾分か遠ざかり、ゴム草履の音と手錠がジャラジャラと鳴る音だけが鮮明に聞こえた。
 地震で滅茶苦茶になった東京をあの体で車椅子を押して帰る妻を思うと、大森の目から悔し涙が溢れまるでしゃっくりのように喉がヒクヒクと鳴り出した。
「ま、国選弁護士なんてのは、あんなもんだよ。こんな事ならケチケチせずに腕のいい弁護士を雇っとくべきだったな」
  腰縄を握る巨体の刑務官が、背後でそう鼻で笑った。
「あんな家族を抱えて、そんな金があるわけないじゃないですか!」
 大森が感情的に叫ぶと、前を歩いていた若い刑務官が「だよな、そんな金があったら強盗殺人なんかしてねぇよな」と肩を揺らしながら笑い出した。
「私は無実です!」
 大森はそう叫ぼうとしてグッと口を噤んだ。今までこの言葉を叫んで、刑事や検事、そしてこの拘置所のチンピラ刑務官達から何度笑われた事かと思うと、慌てて言葉を飲み込んだ。
 手も足も、そして言葉さえも出ない大森は力なくぐったりと項垂れた。このまま息子の手も握れないで殺されてしまうのかと思うと、いったい自分は前世でどんな悪業をしでかしたのかとその因果を恨んだ。

 被告人専用のエレベーターの扉が開くと、中から獣のような体臭がモワッと溢れ出てきた。
「ここは自家発電だから停電の心配がなくていいやな」
 そう言いながら若い刑務官がエレベーターのボタンを押したまま、大森に「乗れ」と道をあけた。大森が乗り込み、続いて腰縄を握る巨体の刑務官が乗り込むと、エレベーターは一瞬ググっと沈んだ。
 巨体の刑務官が人参のような太い指で地下一階のボタンを押した。するとエレベーターの扉は、まるでギロチンの刃が落ちるようにして凄い勢いで閉まった。罪人専用に改造されたエレベーターの扉は、脱走防止の為に凄いスピードで開閉した。それはシンドラー製のエレベーターよりも危険だった。

 東京地方裁判所の地下には、別名・地下牢と呼ばれる仮監があった。東京拘置所からバスで一緒に護送されてきた被告人全員の裁判が終わるまで、そこで待っていなくてはならなかった。
 これからまたあの地下牢で数時間過ごさなければならないのかと思うと大森はうんざりした。地下牢は拘置所の居室とほとんど変わらない作りだったが、しかし、精神的な面から考えると、そこは拘置所とは比べ物にならないほどの地獄なのだ。
 特に今の大森の心境では、その地獄は今までよりも過酷だった。
 無実なのに死刑を宣告され、そして更に、破壊された東京の町に障害のある息子と年老いた妻が放置されているのだ。
 そんな苦しみを抱きながら地下牢に閉じ込められるくらいなら、いっその事このまま死刑台に連れていってもらい、一思いに殺してもらったほうがましだと大森は本気でそう思っていたのだった。

 チン、っというベルの音が狭いエレベーター内に響き、再びギロチンのような扉が高速で開いた。
 薄暗いエレベーターホールには、腰縄両手錠で繋がれた若い女がぐったりと項垂れていた。女性刑務官と年配の刑務官にがっちりと挟まれて立っている。
 大森を連行する二人の刑務官は慌ててエレベーターを下りると、タイルの廊下に靴底をザッと鳴らしながら直立不動になった。
「被告一名、異常なし!」
 若い刑務官が敬礼しながらそう叫ぶと、年配の刑務官は金線の入った袖を掲げて形式的な敬礼を返した。
 大森の顔をジロっと見たその年配の刑務官は副看守部長だった。

「判決はどうやった」
 副看守長は若い刑務官に聞いた。
「死刑です!」
 若い刑務官の声が廊下に響くと、女性刑務官に腰縄を握られていた若い女がぱっと顔を上げた。
 その女の顔を見た瞬間、大森はこれは夢ではないかと思った。
 なんと、あの時、自分を陥れた真犯人がすぐ目の前にいたのだ。
 副看守長は大森を哀れむような目で見ながら「そうか……」と呟いた。そして、うんうんと深刻に頷きながら大森の肩を優しく叩き、「残念だが……」と慰めの言葉をかけようとした。
 しかし、凉子を見つめていた大森の唇はわなわなと震えていた。額に一気に汗が噴き出し、膝がガクガクと震え、両手首の手錠がカチャカチャと鳴りだした。
「どうした、具合でも悪いのか?」
 慌てた副看守長が心配そうに大森の顔を覗き込むが、しかし大森のアゴはガクガクと震えるだけで言葉が一向に出てこない。
「おい、顔が真っ青だぞ、早く部屋に連れてってやれ」
 副看守長が若い刑務官にそう告げると、若い刑務官は「はっ」と背筋を伸ばした。そして震える大森の顔を横目で見ながら「前ぃえ〜進めぇい!」と号令をかけると、それに合わせて巨体の刑務官が腰縄をグッと引っ張った。
 その瞬間、大森の口からやっと言葉が飛び出した。
「ま、待ってくれ!」
 大森の叫び声に、エレベーターに乗り込もうとしていた副看守長が怪訝そうに振り向いた。
「そ、その女です! その女が私の事件の真犯人です!」
 そう叫んだ瞬間、大森は、これで破壊された東京の町で路頭に迷っている妻と息子を助けてやれると思った。何度も夢見て魘されたあの死刑台も、冷たい鉄格子も、刑務官達の陰湿なイジメからも、これでやっと解放されるという希望がどっと溢れ、(これでウチに帰れるんだ!)という感情が一気に爆発した。
 大森は、喉が裂けんばかりの声で絶叫した。
「すぐに弁護士に連絡して下さい! 私を取り調べた刑事を呼んで下さい!」
 凄まじい形相でそう叫ぶ大森の隣で、若い刑務官が「わかった、わかった」と呟きながら大森の背中を押した。巨体の刑務官が背後でプッと小さく吹き出しながら腰縄を強く引っ張った。
「嘘じゃないんです! 本当なんです! その女が私を騙したんです! そいつが男を殺したんです!」
 大森は刑務官達に引きずられた。それでも大森は無我夢中でエレベーターへ向かおうとし絶叫した為、巨体の刑務官に羽交い締めにされ喉を締め上げられた。
 副看守長は、そんな大森を同情の目で見つめながら「うんうん」と頷いた。そしてそのまま女と共にエレベーターへと消えて行ったのだった。


 エレベーターのドアが高速で閉まると、大森の叫び声が一気に遮断された。エレベーターの扉の前に立つ女性刑務官が素早く五階のボタンを押した。グオォォォォォンっという籠った音と共に、三人の体が同時に揺れた。
「……人間、死刑判決を宣告されると、みんなああなってしまうんもんなんだよ……」
 エレベーターの奥で副看守長はそう呟きながら、「まぁ、気を悪くするなよ」と小さく頷いた。
「はい……」
 そう必死に答えながらも、凉子は点滅するエレベーターの表示板を見上げた。
 まさかこんな所であのタクシーの運転手と出会うとは思ってもいなかった。あの事件から一年以上が過ぎ、もうとっくにあの男は刑務所に送られているだろうと思っていたのだ。
 あの若い刑務官が「死刑です!」と言った言葉と、「その女が殺したんです!」という男の叫び声が、凉子の脳裏で交互に谺した。鳴り止まない心臓の鼓動とジワジワと溢れ出る汗が、背後の副看守長にばれないかとひやひやしながら凉子は深く項垂れた。
「気にするな……」
 副看守長は背後でそう呟きながら、凉子の細い肩にポンっと手を置いた。
「あの男も可哀想な奴なんだ……確実な物的証拠も揃ってるというのに無駄な否認を続けてなぁ……下手に否認なんかするから検事や判事に心証を悪くしてしまったんだよ……あのまま素直に罪を認めてれば十五年程度で出られたのに、まったく馬鹿な奴だよ……」
 看守部長が哀愁の漂う口調でそう呟くと、エレベーターはガクンっと音を立てて止まったのだった。

 『上野ホームレス殺人事件』
 そんな呼び名で世間を騒がしていたこの裁判も、いよいよ今日が判決の時だった。
 上野公園に住むホームレスを殺したという罪で起訴されていた凉子だったが、しかし、殺してしまった事実は認めているものの、殺す気はなかったと殺意は否認していた。又、弁護団は、凉子がホームレスを殺した状況について、『レイプされそうになった為にやむを得ない行為だった』として正当防衛を主張していた。
 一方の検察側は、凉子がこの殺されたホームレスと過去に何度か密会していた事実があると主張し、これは痴情のもつれからの殺人であると、正当防衛を真っ向から否定していた。
 しかし、検察側が主張する『過去に何度か密会していた』に関しては直接証拠が何もなく、被害者の仲間が、被害者と凉子が夜の上野公園で会っている所を何度か見た事があるという供述証拠しかなかった。しかも、それを供述しているのがホームレスという社会不適合者ばかりであるため、その証拠は信憑性にかけていたのだった。

 先を進む看守部長が扉を開けると、満席の傍聴席から漂って来る懐かしい社会の香りが凉子を包み込んだ。
 傍聴席に座る人々の視線が一斉に凉子に注がれた。今まで、人の目に晒される事を商売にしていた凉子だったが、さすがにこのステージでは足が竦んでしまった。
 被告人席に着くなり、優しい笑顔を浮かべた弁護士が静かに寄り添って来た。
「大丈夫よ。心配しないで。必ず正当防衛は認められるわ。例え過剰防衛だったとしても執行猶予よ。どちらにしても今日中に家に帰れるから」
 女性弁護士は懐かしい口紅の香りを漂わせながら凉子の耳元に囁いた。

 正面にある法壇の後ろからガタンっという音が響き、真ん中の大きな扉が開いた。
「起立!」と廷吏が叫んだ。扉の中から黒い法衣を羽織った裁判員たちがぞろぞろと現れ、最後に裁判官がのそりと登場した。
 裁判員たちがそれぞれの席に腰を下ろした。六人の裁判員のうち四人が女性であり、しかも裁判長まで女性だった。それは凉子にとって非常に有利な状況だった。

 真ん中に座った裁判長が書類を広げ、「被告人前へ」と呟いた。
 法廷は水を打ったように静まり返っていた。
 証言台に立つ凉子の膝は小刻みに震えていた。
「それでは、判決を言い渡します」
 そう呟いた裁判官は凉子の目を真正面からジッと睨んでいた。 
 裁判官のその目を見た瞬間、ふと凉子の頭に、子供の頃に見た地獄絵の閻魔大王が蘇って来た。

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「被告人を無罪とします」

 そう言い渡された瞬間、傍聴席から「グッジョブ!」という叫び声が響き、一瞬法廷に失笑が広がった。
 その叫び声は明らかに武田の声だった。凉子はそっと俯きながら慎んで判決理由を聞いていたが、しかしそんな凉子の唇の端は、嬉しさのあまりピクピクと痙攣していたのであった。
 

 腰縄手錠無しで法廷を出た。
 半年ぶりに履いたヒールは違和感を感じ、その歩き方はどこかぎこちなかった。
「まずはその歩き方をなんとかしてもらわねぇと、とてもじゃねぇがウチの事務所じゃ使えねぇよな」
 裁判所の玄関で、武田がそうニヤニヤと笑いながらハーフの秘書に言った。
「そんなのシャブ打ってオマンコ一発やればすぐに直るわよ」
 ハーフの秘書が真面目な表情でそう答えると、後ろからゾロゾロと付いて来ていた弁護団が目を丸くした。
 裁判所の玄関には大勢の報道陣が待ち構えていた。
「無罪なんだから堂々としてね」
 女性弁護士が背後からそっと囁きかけた。
 玄関に近づくにつれ、大量のフラッシュとシャッターを切る音が響いた。
「卑弥呼さん! 無罪になった今の気持ちはどうですか!」
 見覚えのあるレポーターが満面の笑顔でマイクを向けて来た。
 素早く武田プロダクションのスタッフが間に割り込み、「この後二時からニューオータニの会場で記者会見致しますので、そちらでお願いします!」と、必死になって叫び始めた。

 そんな報道陣をすり抜け駐車場に出た。
 強烈な直射日光が凉子を突き刺した。排気ガスの匂いのする都会の生温い風が凉子の髪を靡かせ、凉子はそこで始めて自由になった実感を感じた。
「ニューオータニのスイートルームを取ってあっからよ。まずはそこでゆっくり休んで、それから記者会見だ。ふふふふふ。お楽しみはその後だぜ」
 武田がそう笑いながら凉子の尻をギュッと鷲掴みにすると、真っ黒なキャデラックの後部座席に乗り込んだ。
 ハーフの秘書が、「今夜のパーティーでは黒人を三名を用意してるのよ。きっと素晴らしい乱交になるわ」とソッと凉子に囁き、そのままキャデラックの助手席のドアへとヒールをカツコツと鳴らした。
 そんな秘書に微笑みながらキャデラックの後部座席に乗り込もうとすると、不意に背後から「あのぅ」と呼び止められた。
 振り向くと、そこには薄汚い男がポツンと立っていた。
 見るからにホームレスだとわかる男は、無言で何かを凉子に突きつけて来た。
 ビクンっと肩を跳ね上げながら、男が差し出した手を恐る恐る見ると、男の汚れた指には一枚のSDメモリーカードが摘まれていた。

「あの頃僕は、あの噴水の跡地で生活していました。これはあの時、あなたが噴水の跡地で死体を犯しているのを携帯で撮った動画のコピーです。あなたがあの男を包丁で滅多刺しにするシーンもばっちり映ってます」

 男は無表情でそう言った。
 そしてポケットの中から一枚の紙切れを取り出し、「これは僕の携帯番号です。落ち着いたら一度連絡ください」と、それをSDカードと一緒に凉子に渡した。
「なんだてめぇは!」
 キャデラックの中から武田が叫ぶと、男は凉子にニヤリと微笑んだ。

「人生、そんなに甘くないよ」

 そう呟くなり男はいきなり走り出した。
 雑踏の中を走り去って行くスニーカーの音がエコーのように響き、まるで貧血を起こしたかのように凉子の視界がみるみると暗くなって行く。
「誰だあの小汚い男は」
 キャデラックの中から飛び出して来た武田が叫んだ。
 その声と同時に、凉子の視界が元に戻った。
 凉子は男の携帯番号が書かれたメモとSDカードをソっと拳の中に握りしめた。
「なんでもない。おめでとうございますって、わざわざ言いに来てくれたの」
 凉子がそう誤魔化すと、武田はそんな男の走り去る後ろ姿を見つめながら、「なんだよ、だったら今夜の乱交パーティーに誘ってやれば良かったのに」と残念そうに呟いたのだった。

 まるで装甲車のような真っ黒なキャデラックが動き出すと、門の前で待ち構えていた報道陣達が一斉にシャッター切り、その激しい閃光の中に黒光りするキャデラックが吸い込まれて行った。
「うん。ノリピーよりも盛大だ」
 凉子の隣で武田が満足そうに呟くと、すかさずハーフの秘書が「でもホリエモンには負けてるわ」と残念そうに呟いた。

 巨大なキャデラックは車体を大型客船のように揺らしながら走り出した。
 地震で傾いたビルの前に何台もの消防車が並び、鳴り響くサイレンと赤い回転灯で辺りは騒然としていた。
「ここは通れません!右折して下さい!」
 銀色の消防服を着た署員がキャデラックに向かって叫んだ。
 歩道では車椅子に身体障害者の男を乗せた老婆が、傾いたビルを呆然と見上げながら泣いていた。

 大通りを右折し細い路地に入った。
「暑ちいなぁ」と呟きながら武田がクーラーを強くすると、マリファナの匂いが染み込んだクーラーの風が凉子の身体を心地よく包み込んでくれた。
 凉子は無言で目を閉じた。
 もし、無罪でなかったら今頃はまたあの狭い居室で……
 そう思うと、食堂と寝室とトイレが一緒になった三畳半の部屋が鮮明に浮かび上がってきた。
(もう二度とあそこには戻りたくない)と小さく首を振りながらそっと目を開けた。
 いつの間にか真正面には国会議事堂が迫っていた。
 汗でぐっしょりと濡れたSDカードを握りしめながら、いったいこの地獄はいつまで続くのだろうと国会議事堂を見上げると、不意に凉子の脳裏に、蛇とトカゲとムカデが蠢く水のない噴水が浮かんだのだった。

(水のない噴水・完)



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